ある日突然、アネッタに触れなくなってしまった。いや、正確に言えば触れることは出来る。しかし、どうにも力が抜けるのだ。それもその反応を見せるのはカク、ルッチ、ブルーノ、カリファ、ジャブラの能力者五名に限定されており、彼らは口を揃えてまるで海楼石に触れた時のようだと語る。それを見てアネッタは「私にそんな力があるだなんて…」と自分の両手を見つめていたが、それが続くと笑えなくなってしまった。
「……っあ、ご、ごめん」
カクとの書類作業中。資料に手を伸ばしたアネッタの細い指が、ちょんとカクの手に触れた瞬間、アネッタは勢いよく手を引いてしまう。当然、彼女に好意を抱いているカクは嫌がった素振りなんて見せてはいないのだが、他の者の反応を見て思うところがあったのだろう。彼女は自然と手を伸ばすことは無くなり、いつしか彼の部屋に訪れることも無くなっていた。
そうして一週間が経った頃、部屋に戻った先で足を止める。視線の先に、彼女がいたからだ。彼女は合鍵を持っているにも関わらず部屋に入ろうとはせず、その場で円を描くように、うろうろと行ったり来たりを繰り返している。恐らくではあるが、手にはいくつかの資料が握られているあたり、資料を渡しにきたと思うのだが、彼女はいつから入ることすらできなくなったのか。
不審に思い、彼女へと近付いて「アネッタ」と声を掛けると、彼女は肩を大きく跳ねさせて驚きの色を見せる。ただ、彼女は顔を見るなり目を逸らして逃げようとするので、カクは彼女を囲うように両手を伸ばして、扉へと手をついた。
「待て、逃げるな」
カクの声は存外低かったように思う。
そりゃあそうだ、好きな奴から逃げられているのだから。
「っで、でも触っ、たら力が……」
「………お前が離れる方が寂しいんじゃが」
「……嫌じゃないの?」
「わしが嫌と言ったか?」
「言ってない、けど」
言葉を濁らせる彼女は表情を曇らせる。やはり何か思うところがあったのだろう。カクは小さく息を零すと、それを証明するように彼女の肩へと額を寄せて頭を預ける。途端に力が吸い込まれるように抜けていく感覚を覚えたが、それでも彼女を離したくないと思う事は我儘なのだろうか。
自分はこんなにも、安心しているというのに。
「……」
「あ、わ、カクだめ、だよ」
「……本当、どうしたんじゃろうなぁ……」
一体何が原因なのかが分からない。ただ、華奢な腰を抱くと彼女は矢張り困ったような、そんな表情で見上げながら抱きしめ返そうと上げた手を下ろすと、「……力、抜けちゃう?」と尋ねた。
「……少しのう」
「……そ、っかぁ」
思わず落ちる声色。なんだかんだ大丈夫だったら。そんなご都合展開を期待したけれど、そんな都合の良い展開は無く、冷や汗がじわりと滲む首筋を見たアネッタは、少し複雑そうな表情を見せて、そっとカクの体を押した。──が、カクは離さない。ただ、ぎゅっと力を込めたまま「また逃げるのか?」と囁くように耳元で尋ねるので、アネッタは静かに首を振り、カクの服の裾をぎゅっと握りしめた。
「あのね、……あくまで仮説なんだけど少し見てもらいたいものがあって、カクの部屋、……お邪魔してもいい?」
部屋へと招かれた彼女は、部屋の中央に座る。何も床に座らずとも、と思ったが、どうやら手にした資料を広げたかったようだ。広げられた資料は海図が複数枚と、何かの報告書が数枚。仮説を提示するには随分としっかりとしたものを持ってきたものだと視線を落とすと、彼女は一枚の海図を見て、ある一部分を指さした。
「……体に変化があった日。確かに特段不思議なことはしていないし、敵の接触もなかったんだけど此処で潜水してたんだよねぇ」
指した海図は、偉大なる航路――グランドラインを記したものであった。それも、彼女の指が示した其処は、海軍の船が海賊の攻撃により沈没した場所だったと記憶している。
「潜水?……あぁ、沈没船の回収作業か」
「そう、大事な物証があるとかでね。で、此処でも特におかしなものを見ることはなかったし、誰かと遭遇したわけでもないことを考えると、場所が関係してるんじゃないかなって」
「………海楼石か」
「そう、此処は海楼石が産出された場所らしいから、海楼石が関係している可能性はあるんじゃないかな」
「海楼石が原因なのであれば、能力者にだけ効果が出ているのも頷けるのう。……しかし、海楼石がどう関係するんじゃ?」
まさか海楼石が食べたわけじゃあるまいて。尋ねるとそんなことするわけないじゃんと返答が返ってきて、「じゃあ海楼石に触ったとか」と続けると彼女は見ていないと首を振る。見ていないとなると、何処かにしまい忘れたという線も無さそうだ。
確かに彼女は今でこそ人間の姿をしているが、元は岩を纏う岩竜だ。より自然に近く、自然と共存した生き物であることを考えると、石を自生させることも出来るのではと推測できるが、それをたった数時間で成し遂げることが出来るものだろうか。というか、そもそも岩を自生させるのであれば、人の姿ではなく竜の姿になる必要があるのでは。 ───と、ここまで考えたところで、カクは一旦思考を止める。
「……おう、アネッタ」
低い声にアネッタの肩がびくりと跳ねる。
「お前まさか」
「……、………、…………あは」
アネッタが茶目っ気一杯に笑った瞬間、カクはアネッタの胸倉を掴んで持ち上げる。それから「脱げ」と続いた言葉に彼女は目を丸くしたが、「脱げと言ったんじゃ。まさか海で竜化したとは思わんかったのう!」と語気を強めながら言ってネクタイを引きちぎる勢いで引かれると、彼女は子供のように「尻尾だけだもん!!完全竜化まではしてないもん!」といってごねる。アネッタはせめてもの抵抗で足を精いっぱいじたばたと動かしたが、カクと彼女では三十センチ近い身長差だ。いくら足を動かしたところでぷらんと浮いた足は空を蹴るだけで何の抵抗にもなっちゃいない。
「尻尾だけでも駄目じゃといつも言っとるじゃろ!」
「尻尾を出して泳ぐと、びゅんってブーストかけられるから何かと便利なの!尻尾ぐらい良いでしょ!沈没船の中だから誰も見てないし!!」
「よくないわい!」
「あだぁ!お尻叩かないでよ!」
それから暫くして。伸ばした鰐型の尻尾には、海楼石と思われる鉱石が挟まっていた。おおかた何かの衝撃で挟まった海楼石をそのまま体に飲み込んだことで、効果が身体全体に浸透したのだと思うが、まさかこんな馬鹿な理由で頭を悩ませることになろうとは。
岩を重ねたような尻尾の奥できらりと光る海楼石に指を伸ばす。岩の隙間にあるそれはてっきり挟まっているかと思っていたが、不思議と寄生したように他の岩に半分ほどくっついており、引っ張っても取れやしない。それゆえ、カクはウォーターセブンに派遣されていた頃の名残で残っていた石切鋸を引っ張り出すことになったが、海楼石部分を切り離す間も彼女は「怖い…怖すぎる……身まで切らないでね…」とか何とか言ってぶるぶる震えていた。
なんて奴だ。元とはいえ、一番ドック大工職職長を前に随分と信頼がないものだ。というかそもそも一体誰のせいでこんなことになっていると思っているのか。なんだか途端に腹立たしくなって、カクは根元をあらかた削ったところで石をぽきんと折って驚かせてやった。
その後、切り離したことで海楼石の効果がなくなったアネッタは、恐る恐るといった様子でカクの頬に触れる。爬虫類に属する彼女の手の平はやけにひんやりとしていたが、不思議と落ち着くもので、手のひらが触れても特に力が抜けるようなことはなかった。
「ど、どう……?」
「ん、大丈夫そうじゃ」
「はあぁ……よかったぁ……」
「そうじゃのう、まさか馬鹿のお陰でこんなことが起きるとは」
「こ、言葉がとげとげしてるう……」
彼女はしげしげと海楼石を見ていた。ただ、それもすぐに興味が失ったようでそのあたりに転がした彼女は、カクの胸元に入るようにぎゅうっと抱きしめると、そりゃあもう嬉しそうに顔を綻ばせて「あったかいね」と穏やかに呟いた。