可愛いって言ってよ

 陽が陰り、淡い街灯の光が差し込む部屋の一角に、兎角不機嫌な男――カクがいた。彼は差し込む光を遮るように窓際に座り、手足が短くずんぐりむっくとした男の背を踏んで息を落とす。新郎気取りか、光沢のあるホワイトシルバーのタキシードにはくっきりとした靴跡が残っており、痕を広げるように踏みつけるがどうにも気が晴れない。

 忌々しい。この男はよりにもよって彼が最も愛する女に対して愛を囁いていた。耳障りな声で愛を囁き、汚らわしい指で頬を撫で、気色の悪い唇は指先へと。
 ああ、思い返すだけではらわたが煮えくりかえって仕方がない。仕留める際に長引かせなかったのが惜しいくらいだ。カクは忌々しいと腹に渦巻くものを吐き出すように息を吐き出すと、やがて部屋へと入ってきた女を見て静かに視線を向けた。

「あれ、もう終わっちゃったの?」

 しかしながら、荒れるカクとは異なり彼女――アネッタはいつだってマイペースである。惨状を見ても仕事が早いと言うだけで狼狽えることもなく、「それよりも」と言ってその場でくるりと回って美しいドレスを翻す。ウエストからふんわりと広がったプリンセスドレスは、彼の体の隙間から差し込んだ光に反射して煌びやかに光り、彼女の瞳は喜びを滲ませて笑っていた。

「どう?可愛いでしょ」
「……」
「……あれ、ご機嫌斜め?」

 このように、彼女はいつだってマイペースである。それが良いところでもあるのだが、誰のせいで不機嫌なのだと思うと腹立たしい限りで、近くへとやってきたアネッタの手首を掴むと、その力強さに彼女は僅かに体を強張らせた。――が知ったことか。カクはそのまま彼女の体を引いて膝の上に招くと「随分と、この男にへらへらしておったのう」と不機嫌さも隠さずに言った。

「だってそういう仕事でしょ?」

 ハニートラップ任務に宛がわれた彼女は、何を今さらと言いたそうな顔で尋ねる。

「そりゃあ……そうじゃが、……それにしたってサービスが過ぎたんじゃないのか」
「まぁ悪い人じゃなかったし…それにほら、たくさん可愛いねって言ってくれたからさぁ」

 へらへらと笑うアネッタに、カクは苛立ちとは別に動きを止める。それから続くは純粋なる問いかけで、彼は少しの間をおいて「そんなに言葉が大事なのか」と零すように言う。
 彼はハニートラップのために言葉を以て愛を囁いても、任務遂行の手段としか捉えていなかったのだ。よって、それを拾い上げたアネッタは少し意外そうな顔を向ける。普段なら不機嫌を当てるだけの彼が、自分の常識外のことを疑問視するなんて珍しい。
彼女は視線を上に、天井にまで飛んだ赤い染みを見て頭を巡らせる。さてどうしたものかと思ったが、彼が求めているのは理論的なものではなく、アネッタとしての考えであろう。彼女は視線を戻すと、真っ直ぐに此方を見つめるカクの頬を両手で挟んで笑みを向けた。

「カクって恰好いいよね」
「うん?」
「それにとっても強くて、なんでもそつなくこなして苦手なものなんてないんだもん凄いよねぇ」
「まて、何の話じゃ」
「あとはねぇ、笑った顔も好きだよ。カクが笑ってると私も嬉しいってなるし、好きだなぁって思う」

 其処まで言って、カクの両手がアネッタの手を包む。恐らくは止めろと言う事であろうが、彼の顔を見るに怒っているわけでもなさそうだ。アネッタは手のひらに伝わる熱に瞳を細めると、「ね、こうやってさ、言葉にされるのって嬉しいでしょ?」と言い、薄く目を開く彼を見つめた。

「お前もそうなのか」

 カクが静かに尋ねる。

「勿論」
「わしらのようにツーカーの仲でも?」
「誉め言葉は、いつだって誰からだって嬉しいよ」
「………」

 例えばそう、いま彼が踏んづけている男からでも。
 別に彼からの言葉を期待しているわけではなかった。なんせ彼は、憎まれ口を叩く事はあっても世辞を言うことはあまりない。そりゃあ似合っているかと言えば似合っていると言うし、可愛い?と尋ねれば可愛いと答えてはくれる。ただ、自分から見目を褒めたり、愛情を囁く事が無いというだけ。しかし、だからこそたまに言われる世辞が嬉しいと思うのは当たり前。ついつい今日はそれに反応をしてしまったが、これだけ可愛いドレスを着させてもらっているのだ。少しくらい浮かれたっていいだろう。

 そう思うのはアネッタの談ではあるが、カクは考えるように視線を落とす。特にそれが彼の怒りを買ったようには思えないが、彼に同じものを求めていると勘違いされるのは嫌だ。アネッタはむにむにとあまり柔らかくもない頬を揉んだあと「大丈夫だよ、カクがそういうの好きじゃないって知ってるし」そう呟くと自分の手を包み込んだ彼の手がピクリと動く。

「……昔からお前は可愛いぞ」
「うん?」
「お前の笑っとる顔が一番好きじゃ」
「え?」
「この角もお前は嫌じゃと言っとるが、恰好いいと思っとるし、目もきらきらして綺麗で好きじゃ」
「待っ」

 箍が外れた男は止まらない。それこそバカップルよろしく愛を説くように好きなところを羅列して、彼は己の愛を初めて語るが、アネッタからすればこれまで受けなかったものだ。彼女が突然のそれに耐えきれる筈もなく、熱湯を被ったように顔を赤くして彼を拒んだが「お前が欲しいと言うとった言葉じゃろう」と拗ねたように言う彼の囁きは止まることがない。そうして数十分後、「流石に言うことがなくなったのう」というカクに向けてアネッタは「も、もういいよぉ……」と情けない声を零したが、学び終えたあとの彼は「そういう押しに弱いところも可愛くて仕方がないわい」と笑いながら頬を摺り寄せるだけで、決して離してはくれなかった。