普段はウェーブが緩く流れる程度の天然パーマも湿気には弱いようで、しとしとと雨が降り止まぬ梅雨時期というのは私の頭を悩ませる時期であった。
湿気を含んだ髪は毛量が増えたように膨らみ大きく広がって、鏡を前に櫛で梳いても落ち着かず。増えるわかめじゃあるまいし、どうしてこうなった。試しに櫛でまとめた髪をゴムで縛ってみたが、いいじゃない!と思えたのは数秒で、破裂音と共に勢いよくゴムが弾けると、髪がもさもさと広がって思わず息が落ちた。
「はぁ……全然綺麗にならない……」
カリファも愛用しているブランドの、お高い櫛を見る。これは誕生日プレゼントに貰ったものだが、その櫛をもってしてもこの髪は綺麗になってくれないらしい。お高い櫛の敗北か、それとも私の髪が強靭すぎるのか。この櫛を使えばあの美しいブロンドの髪のようになれるかもしれないと思ったが、櫛とは元々の美しさを引き立てるものであって美しくするための道具ではなかったのかもしれない。
そうして大きな鏡のある脱衣所に籠城して暫く、「オイ、バカッタ。いつまで脱衣所を占領してんだ」と機嫌の悪いジャブラが入ってきた。
「げっ」
思わず失礼極まりない言葉を溢したが、相手はジャブラだ。白い牙を見せながら欠伸をするジャブラはもさもさ頭を見るや否や、破れるように笑い声をあげた。
「ぎゃーっはっはっは!おめェなんだその頭は!」
「っし、仕方ないでしょ、雨の日は湿気でこうなるの!!」
「雨の、雨の湿気でそうなんのか…ッ!ひ…っ、おれはそうはなんねぇけどなァ!」
「そりゃあそうでしょうね!」
なんせジャブラの髪は、綺麗なストレートヘアーだ。黒い艶のある髪は寝起きで癖がない様子で、彼が笑うたびにさらさらと揺れている。明らかに、自分とは大違いの綺麗な髪の毛。いつもがしがしと洗っていそうなものなのに、どうしてここまで質が異なるのだろうか。私は思わず声を荒げながら言い返したが、ジャブラの笑いは終わり知らずでヒイヒイと腹を押さえながら笑い転げる様子に、ぐらぐらとはらわたが煮えくり返って仕方がない。
私よりも一回りも年上の癖になんて大人気ないんだ。
そんなんだから、ギャサリンにフラれるんだぞ。
苛立ちで、腹の中がぐつぐつと煮えかえるような。しかし、確かにムカつきはするが、彼の下ろした髪はさらさらと揺れて綺麗だ。伸ばした指先は彼の揺れる髪を掬ってみたが、指通りの良いそれは指の合間をするりと抜けて、逃げていく。
ああ、なんて、なんて羨ましい髪だろう。
「……ジャブラってさぁ、なんかヘアケアとかしてるの?」
「あん?」
「だってこんなに綺麗なんだもん、気になるでしょ」
「気になるつってもなぁ…別に何もしてねぇよ」
「うそぉ……じゃあなんでこんなに綺麗で、ヘアケアも頑張ってる私はこんななの…」
私はヘアケアを頑張ってもさもさで、ヘアケアをしていないジャブラはつやさらなんて酷い。あまりにも不平等ではないか。なんだか無性に悔しくなって目の前で揺れるジャブラの髪を掬う。ジャブラは特に気にしていない様子だったが、そのまま髪の毛を三つ編みに編み込むと流石に鬱陶しさを感じたのかもしれない。大きな手のひらが私の額をペンと弾いて「やめろ馬鹿」と零した。
「だってー……」
「そんなに髪が大事かねぇ」
「大事だよー!女の子だもの」
「女だったのか」
「キイ!!」
「ギャハハハ!」
いつだってジャブラはこうだ。デリカシーがなくて、人の事を笑って。だからこうしてジャブラに飛び掛かることだっていつものことなのだが、いつまでたっても足が地を踏まずにふよふよとその場で浮き上がると、流石に意識も逸れる。私はぷらんと浮きあがった足をみて、それから自分の足の下にある幅広の革靴を見て「カク」と零した。
「こら、脱衣所で何をしとるんじゃお前は」
声を辿るようにして上げた視線。其処には幼馴染のカクが立っていた。自分にと向けられた眼差しはどこか呆れており、「またジャブラに何か言われたのか?」と尋ねたが彼の中で答えは分かり切っているようだ。カクはまだ答えが返ってきていないというのに「ジャブラ、お前もアネッタを揶揄うんじゃない」と声を掛けた。
「ギャハハ…!別にからかってねぇよ、おれァ見たままを言ったまでだ!」
「な、ぁ…?!」
「どうどう、…ジャブラ、お主も火に油を注ぐのはやめんか」
カクからしたら、雨の日に髪が爆発することも、ジャブラと言い合うこともいつもの事なのだろう。私がカクカクシカジカと事情を話しても呆れ度合いが大きくなるだけで、ようやく下ろされたと思ったら喧嘩防止か手首を掴まれて、しっかりと手綱を持たれてしまった。
「……ねぇ、カク」
「うん?」
「カクも私の髪……変だって思う?」
いや、誰がどう見たって、いまの私の髪は変だ。爆発してるし、もさもさだし。つやつやのさらさらではない。けれど、何故だか分からないけれど、幼馴染の彼がどう思っているのかが気になって仕方がない。
尋ねると、カクはどんぐり目をしぱしぱと瞬かせたあと、大きく息を吐き出した。
「……馬っ鹿じゃのう」
「へ?」
「いいか?ワシャお前の髪が変じゃとは思っとらんし、そもそも二十年近く一緒にいて髪が変だと言った事は無い筈じゃぞ?」
違うか?とカク。
そのとき頭に過ぎったのは、まだグアンハオで劣等生とレッテルが貼られていた頃のこと。当時の私といえば貧相な体つきな上に、そこいらの男子候補生と変わらぬほどに髪が短くて、男の子?と尋ねられることも珍しくはない時代であった。
「あのね……わたし、髪を伸ばそうと思うんだけど…」
鍛錬前のちょっとした休憩時間。切り倒された木を椅子替わりに座りながら言うと、少しばかり唐突だったのかもしれない。隣に座っていたカクが不思議そうに首を傾げた後、サイドだけ伸ばした髪を掬いながら尋ねた。
「髪?……これくらいか?」
「ううん、もっと長くするつもり」
「ほう、しかし…なんでまた伸ばそうと思ったんじゃ?」
もっともな質問に言葉が詰まる。なんせ、これまで一度も伸ばさなかった髪だ。それに特に髪にこだわりがあったわけでもない。だから彼が疑問に思うのは至極当然なのではあるが、髪を伸ばせばカリファや他の女の子のようになれるかもしれないと、可愛いと言って貰えるかもしれないと思ったことを口に出すことは出来ず、言葉が濁る。
何故だか分からないけれど、恥ずかしいと、そう思ってしまったのだ。
「え?あ、…ええと、……お、女の子みたいに……その……、」
「……?わしゃアネッタのことを女と思っとるが……、…まぁ、でもそうじゃな、アネッタは長くても似合うじゃろうな」
いま思うと、あの時のカクはどうして髪を伸ばしたいのかということを理解していなかったように思う。でも、事情が分からずともカクだけは否定も無く、笑ってくれた。
そんなことを思いだしたものだから、妙にお腹がくすぐったくなってしまった。今のカクも、あの頃と変わらない暖かな眼差しで、私を真っ直ぐに見る。「お前の髪は変じゃない」なんて紡ぐ彼の声色は穏やかで、妙な気恥ずかしさから視線を落としたのだが、二十年来の幼馴染を前に誤魔化しは効かないらしい。
手に添えられていたカクの手が離れたかと思うと、あの時のように下ろした髪を掬いとる。それから、くるくると指先に絡めて、離しての動作を繰り返したカクは目元を和らげて「頑張って伸ばした髪じゃろう」そう呟いて、それから言葉を続けるようにして「このもふもふだって、犬みたいじゃと思っとるぞ」と笑った。
その瞬間、ほんの一瞬だけ、時が止まる。
「い……ぬ……?」
予想外な評価に零れ落ちた言葉は、なんとも間抜けなものだったように思う。
そしてそれを打ち破るように後ろで笑い転げていたジャブラが、第二波到来とばかりに「ぎゃーはっはっは!カクゥ!お前最高だなァ!!!」と笑い声を響かせて、カクがびくりと肩を揺らす。ジャブラがどうして笑うのか、分かっていないようだ。
「な、なんじゃジャブラの奴…」
「……」
「……うん?どうした急に静かになって」
「……カク」
「なんじゃ?」
「……いま、すごーく遠回しにけなしてる?」
思わず低くなる声。
その言葉にカクは驚いたような顔をしたあと、心外だって顔で声を上げた。
「けな…っ?!なんでそうなるんじゃ!褒めとるじゃろう!」
「どこがよ!い、犬って……!」
「犬は褒め言葉じゃ!」
「聞いたことないですけど?!カクだってふわふわ髪だった時にわぁ~犬みた~いって言われたら嬉しいわけ?!」
「いや、わしは嬉しくないが」
「な、ぁ?!」
そりゃあ、いま私の髪は馬鹿みたいに爆発していて、少なからず、こんな状況で色気や可愛さはないと思う。だが、それにしたって犬と評するのはあんまりじゃないか。よりにもよって、髪のことを肯定し続けてくれていたカクの評価がそれだと思うと、なんだか無性に悲しくなってしまって、じわじわと目頭が熱くなる。
きっと、涙が溢れるまではそう時間はかからなかったと思う。
「……、……カクの馬鹿」
そう呟くと同時に、カクの目がぎょっと大きく見開く。カクからすれば、私が突然泣き始めたとでも思ったのだろう。普段は私相手に狼狽えることなんてないくせに、目の前にいるカクは分かりやすく動揺を見せ、笑っていたジャブラが「やーい、泣かせてやんの」と揶揄う。カクはそれに「煩い!」と声を荒げたが、私に対しては動揺してばかりだ。
「ど、え、な、なぜ泣くんじゃ…」
そう尋ねる彼の言葉は露骨につっかえていた。
「…っ、…だって、…っカクも、ジャブラみたいに…馬鹿にするから……」
「…っ馬鹿になぞしておらん!」
「馬鹿にした!」
「しておらん!」
「だって犬みたいって言ったじゃないっ!」
「っだから!犬みたいに可愛いじゃろうが!!」
啖呵切ったような、切羽詰まった声。
そこで私たちの言葉が途切れる。てっきり聞き間違えかと思ったのだ。
「可愛い…?」
なんせカクは、私に対してあまり可愛いとは言わない。そりゃあ可愛い?と聞けば、おぉ可愛いぞとは言ってはくれるけど、それも私から言葉を強請った結果だ。だから今まで自発的に向けられなかった言葉がどうにも信じられずに聞き返すと、カクも我に返ったらしい。
彼は口をへの字に噤んだあと、帽子のツバを下げると「だ、…だから、その……犬みたいで可愛いと……思っとる……」と普段よりもずっと歯切れの悪い様子で呟いた。
「………本当?」
ちらりと見上げた彼の耳は、疑いようもないくらいに真っ赤に染まっていた。それがとても嬉しくて、もう一度言葉を強請るように問いかけたが、カクは私の視線から逃れるように顔を反らすと、「物分かりが悪い奴め」と小さく悪態をついた。
その後、あれだけ小馬鹿にしていたジャブラが興ざめしたように「はーあ、アホくせ。」と呟いたけれど、二人には微塵も効かず、ひとり溜息を吐き出した。