運命の出会いだとか、運命の再会だとか。そういった言葉があるのなら、きっと今日この日のことを言うのだと思う。
大世界名画展の無料招待券を入手したのは、数日まえのこと。以前図書館で借りた小説が良かったからと本屋で作者買いした本二冊。金額はおよそ千四百円で、施設暮らしで小遣いが少ないカクには少々痛手だが、後悔は無い。それに、キャンペーン中だとかで「一回分くじが引けますよ」と言われ、用も無い癖についてきたアネッタが喜ぶ姿を見るのは存外気分が良い。
カクはくじ箱を前にそわそわと肩を揺らすアネッタに笑い、引かせると、店員は金色のベルを手に取って、カランカランと小気味よい音を響かせた。
「おめでとうございます、B賞の大世界名画展の無料招待ペアチケットです!」
千四百円の本二冊に、美術館の無料招待ペアチケット。大当たりであることを考えてもかなり得をしたが、とはいえ高校生ふたりに美術館は渋いチョイスに思える。元々骨董品などを好むカクならばいざ知らず、前世の記憶も無く年齢相応の女の子であるアネッタからすれば手放しに喜べないのだろう。彼女は愛想の良い笑みでチケットを受け取ったあと、店から離れた先で頭を抱えて、ひとりで百面相をしていた。
「どうしよう……私モナリザぐらいしか知らないよー……」
「美術の授業をちゃんと聞いておったら、少しは分かる筈なんじゃけどなぁ」
「あ……牛乳を注いでるお姉さんなら知ってるかも……」
こういうやつ。と牛乳を注ぐポージングを見せるアネッタ。いや、牛乳の入れ方は両手であって、そんな片手に腰を当てて入れるようなポージングではない。
この行動でも分かる通り、彼女は名画に対してはさして興味があるわけではなかった。というか、どちらかというと興味が無い部類だ。しかし、その一方で、彼女は単純であった。あれだけ一人でああではない、こうではないと頭を抱えていたくせに、数時間もすればケロッとした顔で「でも、なんか面白そうだからやっぱり行こう!」と言っていた。その上、折角行くなら名画をテーマにした服装で行こうと誘う彼女は、早々に気もそぞろになっていたように思う。いや、本当に。
翌日、彼女はそりゃあもう誇らしげな顔で、胸を張りながら言った。
「ふっふっふ……やっぱり名画風コーデで大正解だよねぇ……!」
「そーじゃのー」
「あ、適当だなぁ」
名画風コーディネート。それは名画を象徴する色や要素を、ファッションや手持ちのアイテムに落とし込む行為なのだが、といっても学生でお金のない二人にできる名画風コーディネートなんて限られている。
アネッタはカンカン帽子に青い襟付きシャツを着ただけの【ゴッホの自画像】コーデ。カクはバンクシーの【愛は空中に】をテーマに、黒い帽子を後ろ向きに被って、首元を覆う黒い上着を着ただけのなんちゃってバンクシーコーデ。どちらもクオリティが高いとはいえず、正解は二人にしかわからないお遊び程度の出来ではあったが、デートを盛り上げるには良いお遊びになったことは確かだ。なんだかいつもよりも、特別感がある。
そうして、名画展を意識した服装で訪れた美術館は、広々とした空間が広がっていた。高い天井に、天窓から差し込む柔らかな陽の光。差し込んだ光によって美しく磨き上げられた大理石の床はきらきらと光り、その上をヒールで歩くと、カツンカツンと小気味よい音が響く。アネッタはスカートをふんわりと翻すように回ってカクの手を掬うと、細い指を絡めて笑みを見せた。
「カク、楽しいねぇ」
にこにこと、にこにこと。楽しそうに、それこそわくわくが隠しきれないと手を握る彼女は、まだ何も見ていないのに零す。それがなんだか妙に面白くて、カクはフッと息を漏らすようにして笑みを溢すと、繋いだ手を握り返し「そうじゃな」と頷いた。
スペースの壁一面に飾られた絵画たちは、世界の名画と銘打つだけあって、どれも教科書で見たような、見覚えのあるものばかりであった。ただ、教科書で見るよりもずっと大きなキャンバスに描かれた作品たちは、それなりにインパクトがある。それに、間近で見ると、細部にまでこだわった筆使いや色彩の鮮やかさが一層際立ち、まるで生きているかのような迫力があった。そのせいか、これまで絵画に興味が無かったアネッタの瞳も輝きを失う事は無く、「あれはなに」「これはなに」と熱心に尋ねている。もしかすると、案外美術館というチョイスは良かったのかもしれない。カクは一つ一つ丁寧に説明をしながら、ぼんやりとそう思った。
ほどなくして、目を奪われたように足が止まる。
それは、光の画家と言われたクロード・モネの絵であった。
「カク、これは?」
「ん…あぁ、これはクロード・モネという画家の絵じゃな」
「あ、モネは聞いたことあるかも」
作品名は【散歩、日傘を差す女】と【日傘の女(右向き)】、【日傘の女(左向き)】の三つ。それらは三部作のように横並びになって展示されている。これらは題名にもある通り、白いドレスを着た女性が、日傘を持って立っており、柔らかな光を描いた作品たちはどれも美しいが、なんだか違和感がある。一枚目の【散歩、日傘を差す女】には顔がはっきりと描かれているのに、二枚目、三枚目と続くにつれて顔が朧気になり、三枚目に至っては、描かれている女性の体形すら変わっているように見えるのだ。
「……でも、どうしてこんなにあやふやになっていくんだろう」
何故だかわからないけれど、それが妙に心に残り、目が離せない。
その時、隣の方で違和感を解説する声が聞こえて、耳を傾ける。どうやら、集団旅行者を率いたガイドのようだ。
「こちらのクロード・モネの絵は、左から【散歩、日傘を差す女】と、【日傘の女】の右向きと左向きの三枚がありますが、これらは全て彼の妻であるカミーユをイメージモデルにしていると言われています」
そのガイド曰く――。
一枚目の【散歩、日傘を差す女】はモネの妻であるカミーユと、息子のジャンを描いたものになります。この絵は他の二枚とは異なり、カミーユの顔がはっきりと描かれていることが分かるかと思います。
恐らくこれは、モネにとって、目の前にある限りない幸せをキャンパスに収めたものではないでしょうか。柔らかく暖かな日差しを受ける中、先を歩く息子のジャンと、妻のカミーユが振り返ってモネを見ている。だからきっと、こんなに暖かな印象を受けるのかもしれません。
しかし、この絵を描いてから四年後。妻のカミーユは病に倒れ、この世を去りました。
その七年後に再び描いたのが、【日傘の女】の二枚と言われています。
この二枚に関しては、実際にモデルをしていたのは後妻であるアリスの連れ子と言われていますが、顔が描かれていないこと。それと、腰元にある赤い花がカミーユと過ごした街、アルジャントゥイユの象徴・ひなげしだと言われていることから、あの日傘の女はカミーユをイメージモデルとして描いたものだと言われています。
まぁ、顔がぼんやりとしている理由は、モネが患っていた緑内障が進行したことで描けなかったという説や、描きたくなかったという説など様々ありますが。…ただ、そのうちの一つとして、カミーユの死後、顔が思い出せなくなっていたのではないか、という悲しい説もある絵なんです――。
「随分と、悲しい絵じゃのう」
「………、………」
「アネッタ?」
最後まで話を聞いて、アネッタはなぜこの絵に惹かれたのかが、分かった気がした。
そうだ。この絵を描いたモネは―――あの時の私なんだ。
「あ……」
そう思った瞬間、無性に悲しさが胸を突き上げてきて、どこからともなく湧き出した感情が涙となって溢れだした。きっと、隣で付き添ってくれていたカクは、突然の出来事に驚いていたと思う。彼はいつも以上に大きくどんぐり目を見開き、濡れることも厭わずに袖口で私の涙を拭いながら、「どうしたんじゃ」と尋ねた。しかし、涙が止まらなかった。まるで間欠泉を掘り当てたかのように、感情が次々と溢れ出してきて、止めることができなかったのだ。カクの温かい手が頬に触れるたび、その優しさにさらに胸が締め付けられ、涙は一層激しく流れた。
「っアネッタ、どうしたんじゃ急に……」
「ぅ……っ、……っく…っひ、ぅ」
「アネ……」
突然泣き出した幼馴染の姿に、カクは困惑を示す。
彼女が泣き虫なのは今に始まった事ではないが、どれもきっかけありきのものだ。今のようにきっかけもなく突然泣き出した事は無く、それが不思議でたまらない反面、どうすればいいかもわからない。
アネッタは肩を震わせて、子供のように泣きじゃくる。えーんえーんなんて、泣きはしないが、それでも美術館でとつぜん泣き出せば周りの注目を集めるもので、隣でガイドによる説明を受けていた旅行者たちが泣きじゃくる様子に気が付くと、取り出したハンドタオルを差し出した。
「あらあら…どうしちゃったのかしら。ねぇ坊や、良かったらコレ使ってちょうだい」
「え?あ、あぁ、しかし返すことができんのですが……」
「いいのよぉ、こういう時はお互い様だもの」
そうでしょう?そういって旅行者は笑う。見る限り、年齢は七十代ぐらいだろうか。周りの旅行者たちも次々とアネッタの様子に気が付くと、あらまぁどうしたの?飴いる?チョコもあるわよ。煎餅もあるぞ。やあねぇそれはお爺さんの好きなものじゃない。なんて言いながらお菓子を降らせるようにして渡す。それがあんまりにも多い量だから、一体どこから出て来るのだと突っ込みたくもなったが、先ほどまで泣きじゃくっていたアネッタが「…っふふ、……ふ、」と涙しながら笑うから、突っ込みも忘れてハンドタオルでその涙を拭った。
「じゃあね、落ち着くまで一緒にいてあげてね」と旅行者が去って十分程度。迷惑にならないよう一旦ロビーに出たアネッタとカクは、端にあるソファに座っていた。
あのおばあさんにハンドタオルを貸してもらって良かった。ハンドタオルは涙を含んで湿っており、赤い目でスンと鼻を鳴らす彼女はそれで目元を覆ったが、いまだに視界が涙で歪んで仕方がない。
あの子たちどうしたのかな。別れ話かしら、それとも喧嘩かしら。なんて周りから送られる視線を受けるカクに申し訳なくて謝ると、カクは存外心配そうな顔で、アネッタを見つめた。
「……落ち着いたか」
問いかける声色は、いつだって穏やかで、優しい。
「……、うん……」
「……一体どうしたんじゃ、そんなにあの絵がよかったか?」
カクは知っている。彼女はたかだか絵の一枚であそこまで号泣するようなタイプではないと。そりゃあ泣ける犬猫系の動画を見れば涙する時だってあるが、絵一枚で泣けるほど感受性豊かではないはずだ。
「………よか、ったの、かな………っず、…わかんない…」
「違うのか?」
「……、……隣、で、ガイドさんが説明してたの、聞いた?」
「あぁ、このハンドタオルを貸してくれたおばあさんたちに帯同していたガイドじゃろ?」
「うん…ガイドさん、が、説明……ひっく、…してくれた、でしょ?……どうしてあの絵の、女の人が描かれていないかって、……そ、れをきいたら、わ、っ、……っわたしも、そうだったな、って」
「え?」
「…っ…ひ、…っカクが、………ひっく、……ッカクが先に死んじゃって、……ずっと、ずっと一人で……っ二千年も一人、で、ひ……っひ…っ……顔が思い出せなく、な、って……」
「…!」
そこでようやくカクは気付いた。彼女は前世の記憶を取り戻したのだと。
先の言葉から察するに、モネの絵が思い出すきっかけとなったのだろう。彼女が竜人族であった頃の二千年分の感情を一度に取り戻したことで、彼女の頭は混乱に陥った。だからこうして、あふれ出した感情が涙として出てしまったのだ。あくまで推測の域ではあるが、これならば合点がいくような気がして、慰めがてらに頬を撫でると、あの時と変わらない金色の瞳が真っ直ぐとカクを見た。
「………っ、あ、…いたか、った」
小さく、振り絞るように出した言葉。二千年の時を経た言葉にしては、随分と短くて、情けないものだったかもしれない。それでも、あの日、あの時、彼が居なくなってからずっと思い続けて、何度もひとり思い続けた言葉だ。そう思うと、なんだかたまらなく泣きたくなって、アネッタはもう一度、はっきりとした言葉で「会いたかった、ずっと」と零すと、目の前にあるカクの瞳が大きく揺れて、此処が公衆の面前であるにも関わらず、頬から後頭部に滑った掌が頭を抱いて、そのまま体を強く抱きしめた。
「……アネッタ……、ああ、アネッタ……」
幾多の転生を経て見つけ出した彼女は、前世の記憶を持たなかった。彼女は、彼女である筈だ。だが記憶を持たない以上、自分の全てを晒す事の出来ない焦燥感と戸惑い。そして彼女に指摘された通り、現世の彼女を見ているようで、結局は前世だけを見ているのではないかという罪悪感。手放しで彼女の事を好きだと言うには、あまりにも複雑怪奇な事情に、時折虚しさすら覚えてきた。
そんな彼女が、すべての記憶を取り戻して自分を見ている。
ずっと、ずっと会いたかった、あの時の彼女が。
「っわしもじゃ、…わしも、お前に……アネッタにずっと会いたかった……!」
「………っう、ん……」
「……っぅ……ああ、……わしは…わしはお前に会いたかったんじゃ……」
カクの声は震えていた。それに彼女に向ける顔だって、今まで見たことがないくらい泣きだしそうな顔をしている。ツウと流れ落ちる涙は、これまで耐え忍んできた二千年間の清算か。感情があふれ出した二人は、お互いの存在を確かめるように強く抱きしめ続けた。
「それ、買うのか」
お土産売り場の一角で、モネの絵がプリントされたポストカードを取るアネッタを見て、カクが問いかける。この絵には随分とおおきな借りが出来てしまった。しかし、彼女の瞳は赤いままで、彼からすればこの絵を購入することで、また辛く寂しい感情を呼び起こすのではないかと心配で仕方が無いのだろう。普段はお土産を買おうものなら「そんなもんいらんじゃろ」とか「金の無駄遣いをするな」と煩いくせに、今日はやけに過保護だ。アネッタは「こっちの方がいいんじゃないか」となんだかよく分からないぬいぐるみを手にするカクに笑うと、普段よりも落ち着いた声色で笑みを見せた。
「いいの。だって、今の記憶だっていつまで持続できるか分からないでしょ?それに、前世の記憶を持ってる人ってなにか目的を達したときに前世の記憶をなくしちゃうって言うし……」
でも、これを見たら思い出せると思うから。
竜人族として生まれ、辛く厳しい時代を生き抜いたことも。それでも幸せだった、輝かしい日々があったことも。
「……そうか」
「あ、でもカクがオススメしてくれるっていうならそのぬいぐるみも買おうかな」
そう言うと、カクの口元がへの字に曲がる。アネッタはそれすらも嬉しくて口角を吊り上げて「うそ、うそ」と笑ったあと、一呼吸おいて呟いた。
「…、……あのね、二千年の間、本当に色々なことがあったんだ。だから、その、……長くなると思うけど、聞いてくれる?」
「……わはは、勿論じゃ」
静かに紡いだ言葉に、カクが穏やかに笑う。
それがまた心臓がぎゅうっとするぐらい嬉しくて、また目の前が歪むほどに涙腺が緩んだが、今度は「泣き虫じゃのう」と笑うカクが、アネッタの鼻をきゅっと摘まんだ。
あの日、二千年を生きた竜人族はもういない。この日本という国にも、ほかの世界にも。だからその分たくさん話をしようと思う。いつか、この記憶が薄れ、消えてしまっても寂しくないように。
今までとは少しだけ異なる二人の日々が、ゆっくりと始まる。
完結
最後まで見て下さりありがとうございました。