人間の魂を捨てたあと暫くは、妖の魂が不安定である。そのため、魂が定着するまでの期間は、一日に二度の接吻で妖力を分け与える事が必須とされているが、アネッタは数日経ってもこの行為が慣れないらしい。触れ合った唇を離した後、彼女は長い睫毛を伏せて己の唇に触れながら尋ねた。
「ねぇ、カク。…その、これって……キ……、……キス、じゃないと駄目なの?」
「うん?」
「その……他にも方法はあるんじゃないかなー……とか」
彼とのキスが嫌と言うわけではない。けれどもこれまで交際経験が無かった彼女には、交際零日での結婚や、毎日のキスは刺激の強い出来事続きで、いつまで経っても緊張が解けない。それに、ファーストキスだって彼だったし。アネッタは視線を落としたまま、熱湯を被ったように顔を赤くして呟くと、カクは息を漏らすように笑みを落とした。
「……方法が無いと言うわけではない」
「っ本当?!じゃ、じゃあその方法で」
「しかし、妖力を一旦取り出して、お前が飲めるように加工するのは手間も時間もかかる。……何より、お前はいまだ魂が定着していない身じゃからな。より純度の高い力を分け与えるにはコレが手っ取り早いんじゃ」
だから、何も下心があってこうしているわけではないぞ、とカク。その割にどこか機嫌が良い気もするが、彼がツウと心臓の上に指を向けると、突然指先に赤の火が灯る。彼はそれを妖の魂だと話し、まるで風に吹かれたように揺れ動き、不安定に形を変えるそれを見て、魂の定着が甘いと言う。曰く、魂が定着せずにその身から剥がれ落ちてしまうと、肉体は今度こそ本当の死を迎える事になるらしいが、であれば一体いつになったら定着するのだろう。
疑問に思う一方で、頭が妙に重く、思考が鈍る。
それが強い眠気によるものであることは零れる欠伸で理解できるが、なんだか妙に眠たい。カクは僅かに双眼を細めて腰を抱き、大きな翼で小さな体を隠すようにして抱きしめる。その体は暖かくて、それから少しだけ懐かしいお線香のような匂いがする。アネッタはひょいと膝裏を抱えて持ち上げられると、烏天狗の彼を見て、そっと頭を摺り寄せた。
「……なんだか眠いな」
「魂が定着せぬうちは肉体的に不安定でのう…その眠気もそのせいじゃろう」
「ごめんねぇ……折角素敵なお屋敷に連れてきてもらったのに、ずっと寝てる気がする」
「わはは……まぁ、気にすることはない。……さ、ひと眠りするといい。用があるときには起こす」
穏やかな声に、穏やかな眼差し。そう言えば、いまだ人間であった頃。彼と一緒にあの小さな神社で話している時にも同じような眼差しだった事を思い出す。あの時はその眼差しにすら気付かず、ただ優しさに甘えてその日あった事を話してばかりだったけれど、あの時も彼は好意を抱いてくれていたのだろうか。
二人きりの部屋の中。柔らかな布団へと寝かされたアネッタは、心地よい微睡みに名残惜しさを感じて袖を掴む。彼はそれに目元を和らげて微睡むアネッタを見ていたが、眠りのときはすぐそこだ。カクはおやすみのキスだと言うようにキスをすると、言葉もなく眠りに落ちたアネッタの頬を撫で、小さく呟いた。
「……矢張り、アイツに力を貸してもらうか」
目が覚めたのは、窓から差し込む光が茜色になった頃合い。……それってもう夕方じゃない!アネッタは布団を蹴とばす勢いで跳ね起きる。しかし、辺りにカクの姿は無く、灯りの無い屋敷は薄暗さに包まれていた。
「……カク、どこに居るんだろう」
アネッタは身を起こし、慣れぬ手つきで乱れた寝間着を整えてみる。浴衣型の寝間着って本当に厄介だ。目覚めて無事だった試しがない。だから乱れた寝間着はしっかり整える必要があるのだが、普段はカクに整えて貰っている浴衣。到底ひとりでは上手く整えられる自信がない。……必要なら小間使いを用意するかと提案を受けた時、申し訳なさから断らなければ良かったな。
アネッタは寝巻一枚に四苦八苦しながら後悔を零す。整える合間も特に足音や声は聞こえず、襖を開けた先にある庭先では、羽を休める小鳥たちの愛らしいさえずりだけがよく響いていた。
「……よし、出来た。……居間の方にでも行ってみますか」
寝室を出て、二人暮らしには広すぎる廊下を歩く。裸足で床を踏み込むと、キュ、キュとさえずりによく似た音が響き、修学旅行で行った京都にある二条城の床もこんな造りだったと記憶しているが、はてあれはどんな名称だったか。
廊下を進むと、玄関の方からひんやりとした空気と共に、来訪を知らす鈴が鳴った。
リーン……
リーン……
……リーン
三度の鈴。その涼やかな音はどこか儚げではあるが、反応が返らないあたり本当にカクは不在にしているらしい。であれば、彼の妻となった自分が迎えるのが筋であろう。
アネッタは少し駆け足気味に玄関へと向かい、草履も並んでいない玄関を裸足で出てカラカラカラ…と横開きの戸を開く。しかし予想外にも目の前は黒一色で、目の前の視界が暗いことに気付く。なんだかまるで、壁のような。アネッタは暫く硬直して目の前の壁に触れてみたが、「おい」と声を掛けられるまで、まさか生き物だとは思いもしなかった。
「え」
「……お前は一体誰だ」
静かで、訝しむ声に引かれ、顔を上げる。視線の先には闘牛のような角を持つ男がおり、筋骨隆々とした長躯の男はアネッタを見下ろすが、その眼差しは冷たい。なんだか男の前に立っていると、蛇に睨まれた蛙のように怯えが全身に走る。アネッタは辺り一帯に佇む冷気から頬を撫でられ後ずさると、背後から聞きなれた声が聞こえ、後ずさる身体を受け止めた。
「おお、ブルーノ。無理を言ったと言うのに迎えるのが遅れてすまんのう」
「……構わない、寧ろどうやらおれが怯えさせたようだ」
言いながら、向けられる視線。彼らの会話を聞くに親しい間柄のようで、カクの表情には笑みがある。…であれば彼もまた、カクや酒呑童子のジャブラと同じように良い妖なのだろうか。ジイと見つめていると、ブルーノは一瞥したあとに用事をこの場で済ませようかと提案を向ける。恐らく、アネッタがこれ以上怯え無いためであろう。
アネッタはその配慮に気付くと、首を振り答えた。
「いえ、私のことは気にしないでください。それよりも、驚いてしまってすみませんでした」
「……、……いいや、妖になったばかりでは驚くことが多いだろう」
それに、そもそもカクが先に説明していればこんなことにならなかったはずだ。静かな物言いと、カクにだけ向けられるちくちくとした言葉。カクはそれにウウと言葉を詰まらせると頭を掻くが、確かに彼の言うとおりだ。
カクは改めてアネッタを見つめると自分の非を認めて頭を垂らした。
それから場所を移して、屋敷の中心部にある客間へ。其処で手土産にと渡された風呂敷を開くと、漆塗りの箱に小さな入浴剤のようなものが入っていた。淡い色合いのそれは堅く、桜に紅葉、銀杏に蓮の花と形も様々で、鼻を近付けると甘い香りがする。アネッタはそれを見ながら綺麗だと言うと、カクはそれを一つ取って口元へと向けた。
「ん」
「え、た、食べられるの?」
どうみたって入浴剤にしか見えないけど。呟くと、手土産を持ってきたブルーノが静かに目を見開く。それを見て、ク、ク、クと笑いを落としたカクは「これは落雁じゃ」とだけ言ってそれを押し付けた。――が、甘いのなんのって。
口の中で齧った瞬間、ホロホロと崩れる落雁。口いっぱいに広がる甘味はどこか優しく、それでいて懐かしい。アネッタは頬を緩めて咀嚼を繰り返したが、いまだブルーノは信じられないといった顔で呟いた。
「今の子供は落雁を食べないのか」
「ブルーノ、今時の子供は西洋の菓子が好きなんじゃぞ」
「……、……そうか」
色々と文化的衝撃があるが、これはあくまで土産品。本題ではない。ブルーノはそう自分に言い聞かせて場を切り替えるように息をつくと、約束のものだと言って本命を差し出した。
先ほどの土産品を包んでいた風呂敷とは異なる、厚手の革に包まれたもの。それは革紐で頑丈に結ばれており、カクが一度感謝を伝えるよう彼に向けて掲げ紐を解く。アネッタは隣で覗き込んで尋ねた。
「カク、それは?」
「これは牛頭鬼の角じゃ」
「ごず、き?」
「あぁ、そいつは……ブルーノは牛頭鬼と呼ばれる妖でのう。牛頭鬼の角は一度粉にしてから煎じて飲むと、魂の定着化を早める効果があると言われておる」
「へー……、……え?ってことはこの角ってブルーノさんのってこと?」
確かに革布に包まれたそれはアネッタが持つには両手が必要で、黒光りする角は中々の重量感がある。そして彼の言うようにこれを煎じて飲めば何らかの効果はありそうな代物にも見えるが、何度みたって牛頭鬼・ブルーノの頭には角が生えそろっている。
アネッタは何度も角とブルーノを交互に見比べる。形といい、サイズといい、色合いと言い、間違いなくブルーノさんのものに間違いなさそうなんだけどな。考えているとブルーノは「それは生え変わりで抜け落ちたものだ」と補足を付け加える。それを受け、彼女はやけに感動した様子で瞬きを繰り返し、彼が座ってようやく触れられる位置にある角を触らせてもらい、笑みを落とした。…まぁ、ただ一人。烏天狗の彼だけは気に入らないと黒い翼でアネッタの身体を引き寄せながら包んでいたが。
「なんじゃ、仲良くしおって」
隠しもせずに言われた、棘のある言葉。見上げた先にある表情だって、唇を尖らせて、どこか子供じみており、アネッタは瞬きを繰り返す。そういえば、この屋敷に来てから彼の雰囲気が柔らかくなったような気がする。以前までは頼れるお兄さんという感じだったのに、今はなんというか、年の変わらない男の子にも見えるというか。
アネッタは目の前を遮る翼を手の甲で押し退けて、そっとブルーノに尋ねた。
「ブルーノさん、もしかして……カクってやきもち妬きですか?」
「……今更気付いたのか?」
ははあ、なるほど。だから酒呑童子のジャブラは彼と付き合うと大変だと言っていたのか。ようやく合点がいって、成程成程と独り言ちる。しかし、それでも悪い気がしないのは、彼が向ける愛情があまりにも真っ直ぐで心地良いからだろうか。まぁ、苛立つ彼が煎じた牛頭鬼の角薬はそりゃあもう酷い味だったが、飲み終えた頃には機嫌を戻した彼が良い子だと誉めてくれたし、ついでにブルーノも褒めてくれたので良しとしたいと思う。