はぁ……っはぁ……
荒い息を吐きながら、女子高生が異人町の表通りを駆け抜けて裏通りに入る。スナックやバーが立ち並ぶその通りは一転して静かで、喧噪が遠ざかったことで足を止めたものの……彼女は後ろを見て足を止めるべきであった。とつぜん背後から髪が掴まれて、少女は短い悲鳴を上げながら顔を顰めた。
「うう………ッ」
「はぁ……っちょこまかと逃げやがって……!」
「痛い…ッ、やめ……っ!やめてください…っ!」
「ただ俺と遊ぼうって言っただけじゃねえか!」
それはタチの悪いナンパであった。発端は十五分ほど前のこと。駅前で男が女子高生に声をかけたのがすべての始まりだ。金をちらつかせながらしつこく誘いをかけたが、彼女は困った様子で丁重に断った。それが男の気に障ったらしい。執着心でもあるのか断られても諦めるどころか、逃げる彼女を面白がるように追い回し、いつしか笑みを浮かべながら追跡を続けていた。そして、とうとう裏通りで彼女を追い詰めると、赤煉瓦の壁に押し付ける。
冷えきった赤レンガには僅かな衝撃が響いて、痛みに表情を歪ませる少女に男は顔を近付けた。
「なぁ、やっぱり気に入ったよ。お前のこと」
「……っぅ、や、めてください……」
「いや、いや、そういうのいいから。大丈夫だって、別に取って食おうってわけじゃないんだし」
「…ぅ……っ」
「まずはね、一回遊ぶだけ。簡単だろ?」
話がまるで通じない。彼女の震える声にも耳を貸さず、男は一方的に話を続ける。執着めいた笑みを浮かべながらこの後の展開を勝手に描くその様子はまるでサイコパスで、少女はさらに恐怖を募らせる。……だが、ここはスナックやバーが軒を連ねる裏通り。そんな場所での喧嘩沙汰はご法度とされている。暗黙のルールがあるのだ。
その空気を切り裂くように、低く冷たい声が男の独り言を遮った。
「此処で何をしている」
そこには長躯の男が経っていた。年齢は五十代半ばだろうか。グレーのシャツに同色ベストを合わせた男は店の前である事を指摘して、隙をついて逃げ出した女子高生を背後で庇う。無意識か裾を掴むその手は震えており、「ただの立ち話ではないようだな」と続けた言葉は静かであるが、その眼光はひと際鋭さを増し、その眼差しとただならぬ顔の傷に狼狽するナンパ男は後ずさった。
「い、いや、おれは」
「おれは?」
「……っいえ、……なんでもありません」
あれだけ執着していた男が直ぐに身を引いた。此方を振り返りもせずに逃げるように立ち去る男はなんだか小さく見えて、安堵から息を落とすとようやくといった様子で男――サバイバーのマスターは少女を見下ろして尋ねた。
「……大丈夫か」
「あ……は、はい……っ、あの、すみません、ありがとうございました」
ビクリと少女の肩が跳ねて、震えた声が言う。その手はいまだマスターの裾を掴んだままで、手が白くまで握りこんだ手は張り付いたように離れない。……まぁ、見た限りは厄介な者に絡まれているのだ。人が離れたところで直ぐに落ち着く事はないか。彼女が安堵するかはさておいて「寄っていくか」とマスターが尋ねると、続けて「うちの店はこの異人町で一番安全な店だ。落ち着くまではゆっくりしていけばいい」と彼女を誘い、扉を開いた。
がらんと閑古鳥が鳴くその店は、薄暗い照明が優しく店内を包み込み、琥珀色の柔らかな光がカウンターに落ちていた。カウンター席の上部には店名を書いた青いネオンサインが取り付けられており、その光が揺れるように壁に反射している。
「わあ……」
店全体を支配する人影のない静けさ。椅子はどれも整然と並び、棚に並ぶ酒瓶は一本一本がどこか物語を秘めているように見える。古びたラベルが貼られたものもあれば、艶やかに光る新しい瓶もある。案内されて席に腰を下ろした少女は何か落ち着かない様子で辺りを見回していたが、とつぜん前に出されたオレンジジュースに瞬いた。
「アレルギーはないか?」
「え?」
「今時の子供ってのはアレルギーを気にするんだろう」
「え、あ、えっと、アレルギーはないですけど、そのお金が」
「あぁ、それは気にするな。ただのサービスだ」
「あ、りがとうございます……」
アレルギーを気にしたり、オレンジジュースを出してくれたり。顔は少々強面に見えるが、この人は信頼しても良さそうだ。今だって空気はしんと静まり返っているが、不思議と冷たさはない。むしろ、その静けさがどこか心地よいとグラスに入れられたストローで、意味もなくクルリとかき混ぜてから一口飲むと、口の中で甘酸っぱさが広がってぼやけた意識がクリアになっていく。
少女は手を止めて、マスターを見つめた。
「あの、さっきはありがとうございました」
「うん?あぁ……いや、とんだ不運だったな。しかし高校生が一体どうして此処に?」
「あ……一番くん……えっと、その、少し用事があって」
「一番くん…………もしかして春日一番のことか?」
「え?あ、はい。この間助けてもらって……それでお礼を私に行こうと思ったら、その」
「また絡まれたってわけか」
ははあ、あの勇者一行は、日常的にこの異人町で誰かを救っているらしい。春日一番は勇者一行という呼び名を気恥ずかしそうにしていたが、やはり間違ってはいなかったじゃないか。
息を漏らしてマスターが笑うと少女は不思議そうにしていたが、此処は勇者一行のたまり場。今度からは此処に来るとよいと教えてやると少女はえらく驚いていた。それから少女はもう一度視線を落としてクルリクルリとストローでオレンジジュースと一緒に氷を混ぜると「……また、マスターにも会いに来てもいいですか」そう小さく尋ねて、今度はマスターが瞬くことになった。