沢城
「名前だぁ?ふざけた事言ってんじゃねぇぞ」
俺の名前を呼んでもいいのはアイツだけだ――なんて野暮な事は言わない。紙幣計数機で計測した札束を紙帯で留めて、愛想の無い声で息を落とす。その声色には笑いなど無く紙幣に落とした視線は、何か遠いものを見るように物を捉えていない。「でも、沢城さんじゃ距離が遠いような気がして」そう言うと、彼は「名前一つが距離を測るのか」と返したが、いつもは嬉しい筈の“その場に居ても良い”という赦しがきょうは虚しく思えた。
トミザワ
「エリック……ってのは、やめようぜ。なんか、その、擽ったいっていうかよ」
「エリック」と勇気を出して言ったつもりだった。けれど彼が見せた反応は想像とは違って、大きく瞳が揺れて、それから気まずそうに逸らした視線が下に落ちて、自分の頭を掻く。その様子は何かを誤魔化しているように見えるが――きっと、何かと重ねているのだと思う。「……悪い、本当」その言葉は、口の中が苦くなるほど重かった。
マスター
「俺の名前が気になる?……はは、物好きがいたもんだな」
彼女が冗談を言わない事はよく理解していた。けれど、それがいくら本気であったとしても、それを受けるかどうかは己次第。――まだ、まだ名前を明かす気はない。「冗談じゃないのに……」そうやっていじけたように言って、出してやった酒をチビチビと飲む彼女を見る。その様子に足立が「なんだ××ちゃん、俺が教えてやろうか」と余計なことを挟めば「出禁になりたいようだな」と告げたのは、ちょっとした釘指しで、距離を誤るなと言う忠告であった。……が、しかし、それでも彼女が諦めなかった時、それは自分が観念する時なのかもしれないと――未だ諦めを見せない瞳を見て、ぼんやりとそう思った。
青木
「……親しい気持ちを抱いてくれるのは嬉しいが、俺は都知事だ。ちゃんと苗字を呼んでもらわないとな」
穏やかな紳士が語る、やんわりとした拒絶。其の実――二人は名前を呼ぶに相応しい関係値であった。しかし彼女が「遼」とその名前を呼んだ時、酷い違和感を抱いた。まるで、別の者を呼んでいるような。……自分で決めた筈の名前が、いざ彼女に呼ばれたとき妙にしっくりとこなかったのだ。「じゃあ、いつかは呼ばせてくれますか?」彼女の問いかけに言葉が詰まる。「……落ち着いたらな」本当に、その日はやってくるのだろうか。