ああ、可哀そうに

 大都市ウォーターセブンが茜色に染まる頃合い。普段よりも早く仕事を終えたパウリーは懐の温かさを良い事に、ブルーノの酒場へと向かっていた。
 ああ、クソ。こんな日に限って、ルッチは残業、アネッタは先約がいるときたもんだ。ギャンブルで勝てた今日ぐらいは飯でも奢ってやろうと思ったのに。

 懐の温かさで足は弾めど、気分はいまいち盛り上がりに欠けるなか、水路の続く路地を進んだパウリーは、ふと目先のアーチ橋に立つ人物に気付いて足を止める。あの目立つ橙と紺色の二色で構成されたジャケットに白い帽子姿はどうみたってカクだ。パウリーは、そろりとカクの背後に回り「よお、カク!なんだお前こんなところで何してんだ?」と驚かせるつもりでカクの肩に腕を回しながら声をかけた。

 しかし、予想に反してカクは冷静だった。まるでパウリーが声を掛けてくるのが予期していたかのように肩を跳ねさせて驚くこともなく、「おお、パウリーか」と言葉を返すだけ。これにはパウリーも口をへの字にして面白くないと零したが、そこに兄妹もしくは金魚のフンのようについて回るアネッタの姿が無いことに気付いた。

「……なんだ、アネッタは一緒じゃないのか?」
「おお、アイツは用事があると行ってしもうた」
「先約がいるってのは知ってたけどよ、てっきりカクのことかと思ってたわ。……へえ…カクがフラれてんのは珍しいな」
「そうか?ここのところは毎日そうじゃぞ」

 カクもこの状況が面白くないらしい。

 普段は山嵐と言われ愛想よく笑っている癖に、陽の傾きに合わせるように愛想のよさは陰りを見せて、目深に被った帽子が目元に影を作る。その様子に普段の愛想がよいと持て囃されている山嵐は何処に行ったんだと問いたかったが、口に出す事なく飲み込んだパウリーは「そういや、最近女友達が出来たとか言ってたな。…ま、喜ばしい事じゃねえか」と笑ったが、カクはちらりと近場に立つ家を見上げたかと思うと、「線引きが出来ていればのう」と静かに零した。

 一体線引きとはどういう意味があって、何を指しているのかは分からない。

 しかし、カクは視線をあげたまま、遠くで聞こえる聞き馴染みのある笑い声を聴いて、硬く唇を結んでいた。

「ねぇアネッタちゃん。私ね、こんなに水路があるウォーターセブンに住んでいるのに泳げないの。笑っちゃうでしょ?それで、いつも水路に落ちないようにって水路から離れて歩くようにしてるんだけど……でも、アネッタちゃんがガレーラカンパニーで毎日泳いでお仕事をしているんだって話を聞いて、私も泳いでみたくなっちゃった。…だから、その、私に…泳ぎを教えてくれる?」

 そう言って私に向けられた笑みは、ほんのりと恥じらいを乗せていたが、なんだか胸が暖かくなるような、穏やかなものだったことを良く覚えている。

 また明日。子供のような別れの言葉を言ってから、数日が経った。どうにも仕事が立て込んで、彼女の元へと遊びに行く事は出来なかったが、それでも心に灯した暖かさが抜けなかったのは、約束の日を迎えていなかったからだと思う。まるで遠足を前日に控えた子供のような気持ちで、明日はどんな手順で教えようか。休憩時間には、売店で売っているようなジュースや、特産品のアイスを食べるのもいいかもしれない。なんてことを考える私の足は、随分と軽やかであった。

 そうして約束の日を明日に控えた朝。仕事に向かうべく一番ドッグの門に続く水路脇の通路を歩いていると、なんてないところに人だかりがあるのを見つけて、其方へと駆け寄った。人だかりはちょっとした壁になっていて、身長があまり高い方ではない私は背伸びをしても中心部を見ることが出来ず、仕方なしに搔きわけるようにして人だかりの中へと進んでいくと、人だかりを抜けた先に立つパウリーの姿を見つけ「おおい、パウリー」なんて声を掛ける。

 人だかりの中心部に居るということは、パウリーがこの騒ぎに関係していて、つまりはガレーラカンパニー関係で何かあったのだろう。ならば関係者として首を突っ込んでも良い筈だ。興味半分、心配半分。そんな気持ちでパウリーのもとへと駆け寄ると、声掛け効果もあってか隣に立つ前にパウリーが此方に気付き、ばちりと視線がぶつかり合った。

「ッアネッタ!!こっちに来るんじゃねえ!!!」

 目が合うや否や、パウリーは私に向けて声を荒らげる。突然の怒号にわけもわからず、足を止めた私は困惑していたと思う。なんせ開口一番だ。わけもわからずに足を止めたまま、「え?なんで?」と言葉を返したが、パウリーはフウフウと肩で息をしながら「いいから!こっちに来るんじゃねえ!!」と怒鳴るばかり。

「あっちいってろ!兎に角こっちに来るんじゃねえ!」

 このパウリーというこの男は、兎に角よく怒鳴る。日頃から私のことを破廉恥だの馬鹿女だのとよく怒鳴るし、酷い時には羽交い絞めもしてくるような男だ。というわけで怒鳴られ慣れた私は怒声に驚く事はあっても、今更恐怖で怯む事はないのだが、それはそれとして今日の怒声は、何かが違うような。雰囲気といい切羽詰まったような声色といい、彼は一体何に焦り、怒っているのだろう。
 パウリーの瞳孔は開き切っており、顔色も悪い。気になってパウリーが隠すように立った奥を見ると、通路側は不自然に濡れていた。とすれば何かを水路側から引き揚げたのだろうか。そんなことを考えて、濡れた通路を注視していると、パウリーの立つ足元から伸びた白く細い”それ”を視て、私は一瞬で理解し、そして息を詰まらせた。

「――………どうして」
「アネッタ、大丈夫か」

 疑問を口に出した瞬間、背後で鮮明に響いた声に私はびくりと肩を揺らす。まるで意識が引っ張られるように振り返ると、其処には昇る太陽を背に、逆光で顔の見えぬカクが立っていた。

「……可哀そうにのう、あれを見てしまったのか」

 カクの声は酷く穏やかだった。なのに私はひゅ、と息を飲み込むほど、それがやけに恐ろしかった。カクはゆっくりと距離を縮めた末に私の手首を掴むと、胸元へと抱き寄せる。傍から見れば、カクが優しく、幼馴染の私を慰めているようにも見えている筈だが実情は違う。トットットットットッと動揺で弾む脈を図り、些細な動きを見逃さないよう監視をしているだけなのだ。

「……一体何を考えておるんじゃ、アネッタ」

 随分と脈が速いようだが。
 そんなことを言いたげな囁きと共に、空いた片手が背中をつうと撫で、心臓の位置で止まる。手首に押しあてられた彼の親指は添えられたまま、弾む脈を愛おしそうに押さえつけている。

「あ………」
「……あれはどうやら足を滑らせて水路に落ちたらしい」
「……水路、に」
「ああ。可哀そうにのう」
「……は……っ……はぁ……っ」

 無意識に呼吸が浅くなる。分かっている。呼吸が浅いことなんて。そんなことは分かっているのに、改善するにも開いた口は金魚のようにはくはくと開閉するだけで、呼吸は整うことなく肩が上下に揺れる。

「どうした、アネ。……わしの問いかけにはきちんと答えんといかんじゃろう」

 カクの問いかけが背中をつうとなぞる。
 これ以上、彼を待たせてはいけない。
 本能が私に向けてそう呟く。

「……わ…私は」
「……私は?」
「…………、……なんでもないよ。何も、考えてない」

 冷静に、冷淡に、平然と、厳かに。
 彼に顔が見えない事を良い事に私は唇を強く噛むと、痛みで震えを止める。


 呟いた言葉は、彼にどのように響いたのかは分からない。ただ、言葉を裏付けるだけのものを彼に見せなければならない。大丈夫。大丈夫だ。私はCP9のアネッタ。大丈夫。こんな状況、乗り越えて見せる。私は静かに息を飲み込むと、顔を上げて誰にも悟られぬように笑みを浮かべて「大丈夫だよカク」というと、視線はパウリーの向こう側にあるそれに。固く、硬直したように真っ直ぐに伸びたそれを見て、最後に交わした「またね」という言葉が響く。

「……水路に落ちて死ぬだなんて、彼女も運が悪いね」
「……、…………いい子じゃ」

 耳元で聞こえた言葉が全ての答え合わせだろう。だが、それを咎める事が出来ない私は聞こえなかったふりをして、友人の遺体を見てしまった可哀そうな人として、立ち尽くすことしかできなかった。