香ばしい匂いでいっぱいの、養護施設【グアンハオの森】の食堂にて。大人気メニューのからあげ定食を食べ終えたアネッタは、膨れた腹を摩る。うん、今日のから揚げ定食はやっぱり美味しかった。雇われのおばちゃん曰く、蜂蜜を少しいれたタレに漬け込むことが美味しさの秘訣らしいが、あのお肉の柔らかさとジューシーさは、この食堂だけに留めるのは勿体ない美味しさだ。アネッタは空になった食器を返却しながら「蜂蜜が美味しさの秘密だと思うんだよね」と隣を歩くカクに言うと、カクは意味わからんって顔でアネッタを見た。
「意味わからん」
「え?」
「急に美味しさの秘訣を語られてものう……」
「あ、そう」
「それよりも、……この後は分かっとるじゃろうな」
「ゲー…む、いや、はい、勉強ですよね。あはは、やだなぁ、分かってますって」
特に理由もなくふざけてみようかと思ったが、見上げたカクの顔があんまりにも怖かったので冗談だと誤魔化したが、向けられた視線のとげとげしいこと!アネッタは思わず選択を誤ったと視線を逸らすと、顔よりも大きな手が頬を摘まんで「わしが優しいうちに準備しておけ、五分だけ待ってやる」と呟く。
これが、実に三十分前の事なのだが、いくら優等生からの指導があっても難しいものは難しい。特に数学はどうにも苦手で、前回のテストで不正解だったところも含めてもう一度解いてみたがやっぱり間違えてしまった。その上、計算式の途中でこれは合っていないかもしれないと消した方が正解だったようで、益々頭を抱える羽目になったアネッタは、採点する傍らでゴロンと寝転がって呻いた。
「ダメだぁ~……やっぱり数学は難しいよー……」
しかし、流石は幼馴染だ。彼は「項垂れるフリをして休むんじゃない」と正確にいい当てると、前回は合っていたところを指して、難しい顔で呟く。
「ここも前は合っておった筈じゃぞ。……お前は苦手意識から不安になる傾向にあるのう…」
地頭で言えばカクが上ではあるが、彼女もまたこのグアンハオに選ばれた人間だ。断じて出来は悪い方ではないし、どちらかと言うと記憶力の高い人間である筈。加えて不安に駆られて消したものが正解だったことを考えると、先のとおり、数学は難しいという先行意識が不安を煽って余計な考えを引っ張ってしまうのだろう。こればかりは成功体験を積むしかないが、他の問題をさせようにも彼女はすっかり諦めモードだ。
「はー……こんなんで受験大丈夫なのかなぁ……」
独り言ちるアネッタ。受験の時期を考えれば、まだ一年と少し余裕がある。であれば難関大学を選ばない限りは十分に対策も出来ると思うのだが、そういえば、彼女は初めてやるものに対して不安を抱きやすい性質があったのだった。
それは、幼い頃からカクが隣については先に成功例を見せて、彼女に合わせた方法を事前に仕込むからなのだが、一人での受験ともなると何かと不安で仕方が無いようだ。
カクは長い睫毛を伏せる彼女を見つめた後、シャープペンシルを置いて寝転がるアネッタの隣に手を置いて、覆いかぶさるように見下ろした。
「……じゃあやめるか?」
「あの男…スパンダムはあくまで進学を薦めただけじゃろうし、断る選択肢が無いわけじゃない。じゃから、断ることも出来るぞ。……返事も、まだしてないんじゃろ」
語るその声色も、それから見つめる瞳は普段よりも静かである。ただ、アネッタにはそれが怒っているようにも、匙を投げられたようにも思えない。彼女は手を向けて、先ほどの仕返しとまではいかずとも頬をやんわりとつまむと、カクは瞳を瞬かせた後「らしくないことを言った」と訂正し、身を起こした。
確かに、アネッタから考えれみても彼が妥協案でもなく、諦める選択肢を向けたのはかなり珍しいように思う。なんせ、彼は昔から何かと世話焼きだ。困った事があれば必ず改善策とネクストアクションをセットで出していたし、虐められた時には年上相手にも立ち向かってくれた。いわば、彼は道を示し続ける道先案内人で、頼りになる親友だ。だからこそ、志望校の難易度を下げるなどの妥協案も出さずに梯子を外そうとする行動が不可解に思えてならない。
やっぱり、カクは大学進学に反対なのだろうか。アネッタは寝転んだままずりずりと近寄って、柔らかくもない太ももの上に頭を乗せてみる。
彼の太ももは堅くてちょっと寝心地が悪い。けれども「甘えるんじゃない」と言いながらもぺちんと額を叩く手のひらは暖かい。
「カクはさ、やっぱり進学が反対なんだね」
「……、……」
「でもどうして反対なの?そりゃあ難関大学は私の頭じゃ難しいかもしれないけど、でも、大学に行けないってほど馬鹿ではないと思うんだけど」
カクは気まぐれ無責任な軽口を叩くような男ではない。だから、きっと反対する理由は何かしらあると思うのだが、今になってもその感情も、思いも見えない。此方を見下ろす瞳は光を通さぬほど黒く、瞳の中に映る自分は不安そうな顔をしていたが、幼馴染という関係だからこそ、彼は何かを思っているのに自分は何もしらないという状況が歯がゆくて仕方が無いのだ。
「……、……私だけが何もしらないって、嫌だよ」
少しの勇気を振り絞る。しかし、予想外にもその言葉を受けたカクはえらく複雑な色を見せていた。まるで、お前がそれを言うのかって、そんなことを言いたそうな。そんな表情に思わず息を詰まらせると、カクは「すまん」と一言言い、長い睫毛を伏せた。
「……別に反対理由を内緒にしとったわけじゃない。ただ、お前と離れるのは初めてじゃろ。…何かと心配なんじゃ」
お前は一人じゃ何もできんからのう。それに身体も弱い。運も悪い。ついでにとばかりに重ねる言葉は喧嘩を売っているようにしか聞こえないが、なんだかその言葉が切実なようにも思えてならない。そう思うと、なんだか茶化す事も出来ず「もう子供じゃないよ」と見上げると、カクは困ったような、そんな顔で「わしからすれば、お前はずっと子供じゃ」と言い、さらりと髪の毛を撫でた。