嵐の夜に。複雑な海域に入ったと報せを受けたその日は、恐ろしいほどに視界が揺らめいていた。並行感覚がつかめない。最大級の海賊船である筈のモビー・ディック号が高波を受けて右に、左にと揺れ動く。加えて窓から差し込む白光は何度も続き、ゴウゴウと唸る轟音が追いかけてくる。
「……ぅ、うう……っ」
そんな中、ひとり部屋に籠るアネッタは呻く。雷一つで震えあがるほどの恐怖意識を持っている彼女からすれば、海を荒すこの大時化が恐ろしくて仕方が無いのだ。寝ようにも高波を受ける船体は大きく揺らぐ。それこそ、ベッドから転がり落ちるほどの傾きだ。とてもじゃないが大人しく眠ることなんて出来ずに耳を押さえると、それを嘲笑うようにそれ以上の轟音が手の内に入り込んでくる。
ああ、駄目だ。堪えきれない。
恐怖と、不安。それから少しばかりの寂しさ。アネッタは孕む感情を堪えることが出来ず、ダアダアと溢れる涙を拭い、鼻を啜って立ち上がる。それから、なんとか壁伝いに扉付近まで近づいて、船体が落ち着いたタイミングで助けを求めて部屋を出たが、流石は大時化。外で荒れる海はあまりにも不安定であった。廊下全体が窓から差し込む白い光で包まれた次の瞬間、大きく船が傾く。それこそ、まるで天地が入れ替わったのではと思うほどの傾きだ。途端に体はぐらりと後方へと揺らめいて、アネッタはまるで背中側から体が落ちていくようだと悲鳴と共に瞼を閉じた。
「きゃ、あ、あああああっ?!」
「……おっと」
まぁ、その叫びも、数秒と続かずに終わりを告げることになったのだが。
「大丈夫かな、お嬢さん」
声を頼りに、瞼を開く。体に痛みはない。むしろ背中が暖かいくらいで、恐る恐る見上げると、そこにはシルクハットを被った恰幅の良い男――ビスタが立っていた。いや、というよりも、彼が体を抱えてくれているのだろう。いわゆるお姫様だっこの状態で外に投げ出した足は、宙に浮いたままプランと空を蹴る。
「ビスタ……?」
「あぁ」
「あ、ありがとう……!おっこちるかと思ったぁ……」
「丁度良く受け止められてよかったが、……部屋を抜け出すとは珍しいな」
優しく、穏やかな低い声。どこか安堵も見える眼差しはアネッタを見下ろすが、問いただしたいわけではないのだろう。ただ不思議に思う問いかけは彼女の動揺を和らげたが、アネッタは抱いた恐怖感を前に少しばかり口ごもってしまった。
「あ、う、うん……あの、あのね」
「うん?」
「……笑わないでね?」
「お前がそう望むのならば」
「……、……あの、…あのね、雷が怖くて、その、あと船も大きく揺れるから寝付けなくて」
少し前の彼女であれば、部屋に閉じこもって我慢をしていたと思う。それでも今こうしてしっかりと発言できたのは、彼らが甘えても良いのだと言い続けてくれたからに違いにない。現にビスタも勇気ある発言を茶化すことはなかったし、かといって過分に反応するわけでもなく「そうか」の一言で流すと、目尻に浮かんだ涙を拭った。
「……最低でも明日の朝まではこの大時化が続くが、一人で耐えるというのも酷だろう。……お前が良ければだが、今日は私の部屋に来るか?もてなしは出来ずとも、一緒に居ることは出来る」
「……いいの?」
「あぁ、他でもない末っ子の頼みとあらば」
茶化すことは無いけれど、茶目っ気強く送られるウインク。これもまた遠慮の壁を取り払うための思慮だろう。頼もしい言葉にカイゼル髭が僅かに揺れ動く。なんだかそれがおかしくて、アネッタは目尻を下げながら「へへ……じゃあお言葉に甘えちゃおうかな」そう言ったつもりだったが、今日はどうにもタイミングが悪いようだ。後ろから「おおい、ビスタ!」という声が割り込んで、ビスタの意識を引いた。
「ラクヨウ、どうした」
「これから会議だとよ!部屋に集まってくれ」
「ありゃ」
「……さて、どうしたものか」
見上げたビスタの顔が、少しばかり陰りを落とす。アネッタはそれを見上げると、申し訳なさそうに大丈夫だと主張したが、ビスタからしたら到底大丈夫には見えない。
「大丈夫じゃないから抜け出したんだろうに」
そう続けると、アネッタはううっと言葉を詰まらせた。
「うう。あ、で、でもこんな夜に会議をすることがあるんだねっ」
「うん?……あぁ、恐らくは海域のことだろう」
「海域?」
「……、……この海域は、普段は穏やかな海なんだが……それがどうにも今日は大きく荒れている。航海士いわく、異常気象ということだが、ならばこの海域を抜けるか堪えるかは早々に判断しなければならない」
「そういうことかぁ……ううん、何か役に立てればと思ったけど、なんにも分からないや」
ごめんね。傾く船の中でも慣れた様子で歩くビスタに向かって零す。その言葉にビスタはえらく驚いたような顔をしたが、息を短く吐き出すようにフッフッフと笑うあたり悪いことをいったわけではないようだ。ビスタはひとしきり笑い終えると「幹部全員が駆り出されている場で、お前が取り仕切るのか」そう呟いては「いつの日か、そうなることを楽しみにしていよう」と続けたが、どうにもすんなり飲み込めない。
よって、丁寧に抱えられたままの足をぱたぱたと動かして「ねぇ、いま馬鹿にしてない?」と尋ねたのは、ちょっとした反論のつもりだったのだが、その瞬間、これら全ての雰囲気を切り裂いて船体を揺らすほどの轟音が響く。
アネッタは身を強張らせて、耳を押さえながら小さく呻いた。
「ぅ、や゛…っ」
腕の中から響く、僅かな振動。さっきまでは笑みを見せる余裕があったというのに、いまは真っ青な顔で震えている。
「大丈夫か」
「ごめ、ん、ビスタ、だい、だいじょう、ぶ」
気丈に振る舞いたいのだろうが、それに反してダアダアと涙が溢れる。おそらくは制御できないほどの恐怖が彼女に刻まれているのだろう。こうしている今も、大きく開いた胸元にあてられた手は小刻みに震えており、船体が揺れ、大きく雷が轟くたびに華奢な身体がびくりと強張る。
一体何があれば此処まで震えるほどになるのだろう。
いや、いいや、今は考えている暇はない。早く安全な場所へと預けなければ。
ビスタはラクヨウに声を掛けてから慌ただしくなりはじめた廊下を駆け抜けて、一等目立つ部屋の扉を開けると、ベッドに腰を掛けるニューゲートにアネッタを託した。
「親父、すまないが幹部会議のあいだアネッタを預かって欲しい」
「グラララ……突然来たと思えばなんだ藪から棒に。……まぁ、別にかまわねぇが、随分と慌ただしいな、一体なにがあった」
「雷が……あぁ、いや、この船体の傾きだ。船上生活に慣れていないアネッタでは一人でいるのは危ないと思ってな」
「そういうことか」
一を言って十を知る。信頼が成り立っているからこその阿吽の呼吸か、それともこれこそが大人の会話ということか。瞬く間に預けられたアネッタは呆然としていたが、残された部屋の中も傾きに合わせて揺れ動き、天井から下がるペンダントライトが様々な方向に光を散らしていた。
「グラララ……なんだ、雷が怖いか」
それともこの大波が怖いのか――。
穏やかな声色に、あたたかく、それでいて少しばかり乾いた指先が、涙を掬う。不思議と彼の股の合間にいると、船が傾いても転がり落ちることはなく、ようやく落ち着いたような気がすると、そんな漠然とした安心感に息を落としながら呟いた。
「ん……情けないけど、昔から雷が怖くて……、……ごめんなさい……」
怖いものは沢山あるが、そのなかでも雷は幼い頃から一等苦手なものになっていた。いま思い返してみれば、それがどうしてかは分からない。けれども、あのけたたましい音を聞くと、途端に体が拒否反応を起こすように涙が出始めて、自分では止められなくなってしまうのだ。
これはまさに人体のエラーだ。そう思うと致し方ないことのように思えるが、それでもこの船上生活では、致命的すぎる弱点のようにも思う。よってアネッタは不甲斐ない、情けないと長い睫毛を伏せながら言ったが、意外にもニューゲートは不思議そうに首を傾げた。
「何を謝る必要がある」
「え?」
「グララララ……人間怖いもんは一つや二つあるもんだ」
「……オヤジさんも?オヤジさんも、怖いものがあるの?」
「あぁ」
「本当?私に気を遣ってるんじゃなくて?」
にわかには信じがたい言葉だ。
鬼より怖い白ひげ、エドワード・ニューゲート。今や一番海賊王に近いと呼ばれる男に怖いものなんて本当にあるのだろうか。手なんか体を平気で握りつぶしそうなほど大きいし、胡坐をかいた股の間なんてちょっとしたゆりかごだ。アネッタはベッドにある毛布をずりずりと股の間に引き込んで巣を作り、そこに寝転がってみると、ニューゲートは肩を揺らめかせながら笑い、大きな指を頭の上に滑らせた。
「アホンダラァ、嘘を言ってどうすんだ。おれはよ、……おれは薬が怖ェ」
思わず、瞬く。意外すぎる言葉だ。しかし「大人なのに?」と尋ねると、笑い混じりの言葉が「おォ、薬なんざ飲みたかねェんだ。サッチに見つかると口うるさく言われるけどな」と零す。
あ、これは、怖いというよりも苦手なのでは。そうは思うが、なんだかそれが彼なりの励ましなのではないかと思えて、アネッタは彼を見上げたままくすくすと笑い、それから同意を返した。
「んふ、それは分かるかも。サッチもマルコもお薬に対しては煩……しっかりしてるよねぇ」
「グララララ……」
「……へへ、なんだ、そっか、怖いのは私だけじゃないんだ」
私、足手まといじゃないんだ。なんだか嬉しくて、安堵も出来る言葉。嬉しくて、つい足をぱたぱたと揺らしていると、ニューゲートは少しばかり双眼を細めたあと、「あとは、そうだな、おれァ家族が減ることも怖えかもしれねえな」と零した。
「え?」
「息子も娘も、……もちろんお前もだアネッタ。家族が欠ける経験てのはいつ経験しても辛いものがある。この先もなるべくはしたくねェもんだ」
「オヤジさん……」
「だから、お前もあまり無理はするんじゃねぇ」
聞いた話じゃ最近は、随分とやんちゃをしているらしいじゃねぇか。そう続く言葉に、アネッタはギクリと言葉を詰まらせる。一体どこまで聞いているんだろう。ライムジュースを飲み忘れて騒ぎになったことか。それともエースくんと一緒にギャレーに忍び込んで、骨付きウインナーを食べたことだろうか。
けれども彼の言葉は穏やかなままで、それどころかどこか上機嫌にも見える。それを裏付けるように、相変わらず撫でる指先は暖かかったし、優しい。アネッタはそれを受けていたが、あたたかなゆりかごの中は安心感が兎に角強い。なんだか撫でられていくうちに瞼が重くなって、もう少し話していたいとアネッタは目の前が朧げになっていくのを堪えながら「オヤジさんやめ、ねむ、…くなっちゃ、う」と零していたが、言い終えると同時に意識は落ちてしまい、スウスウと寝息が続くことになった。
「グララララ……体の弱ェ子供が夜更かしをしてどうすんだ、アホンダラ……」
穏やかな声と、ゆらゆらと揺れる気持ちよさ。ああ、もっと話したかったな。鬼より怖いなんて嘘じゃないか。しかし、アネッタの眠りは予想外にも深く、深海へと潜り込む。数刻後、会議を終えて迎えにきたビスタとサッチ、それからマルコはその様子に子供だなんだと笑っていたが、だれひとりとして起こすことはなく、やがて朝を迎えた。