毒薬

 この物語は、ハインハット卿が退屈しのぎに提案したロシアンルーレットから始まった。ルールはとても簡単で、六つのグラスに注いだ白ワインの中に、一つだけハズレがある。自分の前と相手の前にグラスを置き、誰かがハズレを引いたら負けというゲームだ。ハインハット卿の向かいに座る客人はその提案に興味を持ち、彼と一緒にゲームを始めた。2人はワインを飲みながら、緊張感のあるゲームを楽しんでいた。

「どうぞ、ハインハット卿。次はあなたの番ですよ」

 暫くして、向かいに座る客人が目元を和らげながら言い、隣に控えた男たちの視線が最後のグラスに向けられる。ただ、それだけの行動に心臓が煩いぐらいに鳴りやまないのは、私の隣に控えていた筈の従者達が白目を向いて、床に体を倒しているからだろう。客人の示したグラスに伸ばした手は情けなくぶるぶると震えていた。


「ご苦労。」

 ルッチがそう告げた瞬間、今日の主役は立ち上がる。ハインハット卿の自白により、目的の密売リストも手に入ったというのに随分と忙しないように思えて「どうした?」と声を掛けたが、アネッタはいつになく素っ気なかった。此方を見るや否や、いまはそんな余裕はないとばかりに自分の前に手のひらを向けるだけで、すぐにその場から去ろうと視線を背けてしまう。咄嗟に腕を掴んだが、彼女は迷惑そうな顔を向けて腕を振るう。離してと言いたそうな行動だった。
 撤収作業が進むなか、いつまでたっても戻らないアネッタを探しに出たわしは、お手洗いの前で足を止める。なんだか妙に嫌な予感がして、其処が女子トイレではあったが構わずに中へと入ると、案の定というべきか、予期した通りと言うべきか。戸も締めずに洋式便器に向けて顔を伏せるアネッタを見つけ、「アネッタ」と声を掛ける。
 しかし、アネッタは言葉を返さない。いや、此方を見上げる顔を見るに、言葉が出ないのだろう。口端は僅かに濡れており、膝を折ってしゃがんだわしは彼女の口端を親指の腹で拭ってやると「…外れでも引いて口が痺れたか」と尋ねた。

「……」
「アネッタ」
「……」
「……アネ、言わんとわからんぞ」
「……」

 暫くの問いかけを経て、アネッタは頷く。
 全く、従者二人が白目を剥いて倒れるほどの毒を飲んだのなら、さっさと自己申告すればよいだろうに。彼女は自分自身のタフさを過信しすぎている。
 洋式便器に凭れたわりに、便器内が綺麗であるところを見るに、おおかた痺れ出した口内の感覚から吐き出そうとして、うまく吐けずじまいだったのだろう。

「……ちょっと失礼」

 そう言って彼女の後ろに覆いかぶさるようにして身を寄せると、華奢な肩がびくりと跳ねる。小動物じみたその動きが愛らしいと思うものの、いまは一刻も争う事態だ。左手を彼女の首に添えて、右手を口元に寄せると「か、ぅ」と短く呂律の回らない声が落ちたが、これ幸いと開いた口に中指と人差し指を入れて、奥を突く。途端に嘔吐反射によってひくひくと震える喉。「ぅ―――?!…っ…ぅ…ぉえ”……っ!」苦し気にアネッタが呻きを上げると、先ほど飲んだであろう酒が便器へとびちゃびちゃと流れ落ちていく。途端に、辺りにはむせ返るような酒と胃液が交じり合ったような匂いが立ち込めたが、その匂いが更なる嘔吐を引き起こしたらしい。瞳に涙を溜めながらも苦しそうに呻くと嘔吐を続け、やがて数度の嘔吐を経て出るものが無くなると、洋式便器に力なく凭れたまま肩で息をしていた。

「いい子じゃのう…、……全部出たか」

 問いかけに言葉は返って来なかった。
 空になった腹に腕を回して此方へと抱き寄せて、そのままお姫様だっこよろしく抱き上げる。血色の悪い顔が此方を向いて何か言いたそうに睨みつけたが、そのまま胸元に顔を寄せて不機嫌に呻きを落とした。