可愛い野鼠ちゃん(趙)

 横浜・伊勢佐木異人町、飯店小路にて。手入れもされずに剥げたペンキが物語る、寂れた中華料理屋の前で、黒光りするネイルの男──趙の手が、細い手首を掴む。彼らは初対面であったが、突然、視界の端からぬうっと伸びた手からは逃れる事は出来ず、そのまま裏へと引きずり込まれた女は壁へと押し付けられて、小さく呻いた。

 コンクリートの冷たい壁に縫い付けるように押さえつけた趙の手は存外力強い。それに、ただ一本ぽつんと立った街灯が照らす彼の瞳はサングラスによって隠されているが、その奥に潜む瞳は愉悦を乗せており、抵抗を許す気はないと、そう言っているようであった。

「ねぇ、お姉さんでしょ?最近うちの…横浜流氓を嗅ぎまわってるっていうネズミちゃんは」
「っな、んのことだか……」
「あれぇ…おかしいな、……こんな状況でも嘘を吐くんだ?」

 趙は、この女が情報屋である事は、とうの昔に掴んでいた。

 であれば、此処で彼女に接触するのは単なる忠告目的ではあるが、目の前の女はどうにも簡単に頷いてはくれないらしい。コミジュルが情報の入手に手間取ったことや、それからこの状況下でも覗かせる反抗的な目を見るに、彼女が連む春日一番とは違って素直ではない厄介な女らしい。ならば、余計に彼女の求む情報に辿り着く前に消してしまった方が好ましいが、どうにも惜しい。

 趙は飄々と言いながら、掴んだ手から力を緩めたが、その手のひらは離れるわけでもなく、蛇がその身を巻き付かせるようにじわりじわりと手を滑らせて、壁に縫い付けた手のひらに己の手を重ね合わせると、恋人繋ぎよろしく指を絡めて「俺がわざわざ接触した意味、分かってるよねぇ」と耳元で囁いた。

 それは忠告であり、最終警告だ。

 ただ、女はそれを聞いてもなお、強情であった。

「……ッ……ふ、…ふふ……熱、烈なデートのお誘いと思った、けど」
「うん?」
「こ…んなにいい女相手にしてるんだから……そう思って当然でしょ?」
「ええ?なにそれ、本気で言ってんの?」
「こんなとこで冗談言うように見える?」
「……、……ふ…、…っはは……、……ははは!……あーあ……参ったな、……想定した言葉が返ってこないんだもんな」

 趙は彼女の肩口に頭を預けて笑う。それもゆらゆらと肩を揺らして笑うあたり、本当に想定外による笑いだったようだが、彼はそのままひとしきり笑い終えた後、少しばかり顔を横に傾けて「あーあ、……俺ってこういう人、気に入っちゃうんだよなぁ」と零せば、そのまま首筋へと唇を寄せた。

 首へと触れた唇は、味見でもするようにちゅ、ちゅと短く触れるだけのキスを繰り返す。そうして一番目立ちそうな場所を見定めて、唇を押し付けた趙は緩く吸い上げることでくっきりとマーキングを施し、ようやく顔を離した

「…ッ…………」
「お、かーわいい顔……まぁ、これは俺のお気に入り印ってことで……」

 黒い指先が、跡をなぞる。女は、なんて厄介なものつけてくれたのだと思ったが、彼はそれで満足したらしい。一歩、二歩、三歩と後ろに下がると、「……じゃあ、おれは忠告したからねぇ?……まぁ、アンタのこと気に入っちゃったから、もしかしたら次も俺から会いに来るかもしれないけどさ。その時はデートでもしようよ」とそんな軽口を溢しながらへらへらと嗤っていたが、なんだか蛇の毒牙にかかったように思うのは、──気のせいだと思いたい。