上着なんて必要のない暖かい気候のセントポプラを出た筈が、気付けば雪国の海域に入っていた。しんしんと雪が降る中、寒さに人一倍強いことを理由に外の見張りを任された小さな竜は、見張り台でピルルル…と口笛を吹くような鳴き声を出しながら外を見る。びゅうと寒い風が吹き抜けるこの海は、寒さのせいで眠ってしまったように穏やかで、海賊船も、海軍船も、それから輸送船すらなく、なんだかこの世界にこの船だけが取り残されてしまったようだと、そんなことを思った。
「アネッタ」
「あ、カク。どうしたの?」
「暇つぶしにのう。そっちはどうじゃ、何か面白いものはあったか」
「んー?なーんにもいないよ、輸送船もいないし……海賊も海軍もいない」
「ほう、そりゃあ安心じゃのう」
「……そうかな?」
「ああ、休憩も入りやすいじゃろう。ほれ、暇なら少しこっちへ降りてこい、お前に食べてほしいものがあるんじゃ」
「わ、なになに?」
アネッタは食べ物という言葉につられてわしの元へと近寄ると、ごつごつ頭を摺り寄せる。それが彼女なりの甘えであり、コミュニケーション方法だとは理解しているが、それにしても長時間外にいた体はひんやりと冷え切っていて「寒くないか」と問いかけると、アネッタは「こっちの姿だとぜーんぜん」と笑った。 どうやら竜とは寒さに強い生き物らしい。まぁ、持ってきた物を考えると其方の方が有難いのだが、それでも人の感覚を失った彼女を見ると、どこか虚しいような、切ないような、なんとも形容しがたい気持ちになってしまう。
「……そうか。ならよかったわい」
わしはそれを隠すように短く言うと、甲板の端の方に張った日よけのパラソルテーブルの元へと足を進めて、備え付きの椅子へと腰を下ろした。雪で冷えた椅子はひんやりと冷たく尻が冷える。アネッタもテーブルの上にちょこんと座ったが固い鱗をまとった身体は冷たさを感じないのか、特に冷たいという素振りも見せずに、これから一体何が食べれるんだろうと尻尾を犬のように揺らしていた。
「よし、じゃあ準備するかのう。ちょっと待っとれ」
「ここで作るの?」
「あぁ。物は全て用意してきたからのう」
言って、パラソルテーブルの下に置いていたものをテーブルの上へと置く。用意したのはカチカチに凍った魚にまな板、ナイフだ。アネッタはテーブルの上に置かれたそれらを見つめた後、おろおろと困惑したようにわしを見た後立ち上がって凍った魚にがぶりとかじりつく。――が、何もこのまま食べろというわけではないので「こらこら」と言うと、アネッタは違うの?とやけに驚いたような顔を此方に向けた。
「丸のまま魚を食べろというのは、あまりにも人道外れておるじゃろう」
「いや…いま人じゃないからそういうことなのかなって……」
「馬鹿じゃのう」
「ウウッ、無駄に歯を傷つけただけになった……かたかったぁ……」
「ん、大丈夫か」
顎を掴んで先の尖った歯が並ぶ歯列をなぞると「えう」と短い声がアネッタから落ちる。
特に傷がついているようにも見えないので手を離すと、あぐあぐと口を開閉しながら「なんかカク、より過保護になったねぇ」と言われたのだが、突然好きな奴が竜になってしまった身にもなってもらいたいものだ。
「そうかのう」
そんな適当な言葉を返しながらまな板の上に凍った魚を置いたわしは、ナイフを宛がって頭を落とす。
それから切り落とした部分を下にして尻尾を持つと、上から下にかけてすき引きをするように皮を薄く切り落とし、身だけを薄く切り落としていくと、薄っぺらい魚の切り身はカンナで削ったように弧を描く。そうして一枚、また一枚と薄い切り身が増えていくとアネッタは不思議そうにそれを見て「ねぇ、カク、これはなあに」と問いかける。
こんな料理、見たことないって顔だ。
「見たまま、薄く削っただけのものじゃ。ほれ」
「いや、そういうことじゃなくて料理名…あむ」
口元に寄せた凍った切り身を咥えたアネッタは、口を動かして咀嚼を繰り返す。
そして暫く咀嚼を繰り返したあと、「んん、つめたくてしゃりしゃりなのにお魚の味がしておいしーい……」と金色の瞳をきらきらと輝かせた。
「おお、そうか。そりゃあよかったわい。昨日食べたスープは身が崩れて食べづらそうじゃったからな、魚に関してはこういった食べ方の方が良いのかもしれんのう」
「たしかに、あれは食べづらかったかも……」
「まぁ、その姿ではな」
「へへ、ありがとー。もっとたべてもいい?」
「勿論。そのために持ってきたんじゃからな」
アネッタは美味しい美味しいと口にしながら凍った魚の切り身―――ストロガニナを食べる。
しょりしょりと、霜を踏むような音は実に心地良く、彼女を真似て一つ切り身をとって口に運ぶと、口の中でじゅわりと溶けた魚の実が口の中で解けて、旨味だけを残して溶けてゆく。腹が冷えるのは難点ではあるが、確かに、これはこれで美味しいかもしれない。このストロガニナを教えてくれたジャブラの「結構酒の肴になるんだぜ」という言葉の意味がようやく分かったような気がした。
そうして暫く食べ進めて、アネッタの手が止まった時、「それで少しは元気が出るか、アネッタ」と問いかける。口いっぱいにふがふがとストロガニナを詰め込んでいたアネッタは、それこそ何のこと?と言いたげに「え?」と不思議そうにしていたが、ここ数日のアネッタはどこか元気がないように思えて心配だったのだ。
「……元気なかったじゃろう。お前にしては静かじゃったしのう」
「…私にしてはって…」
アネッタが口ごもる。尻尾は答えに迷うようにうろうろと彷徨い、それからぺたんとテーブルに尻をつけるとアネッタは視線を落として、黒く尖った爪が伸びる手を見つめながら「……戻れなかったらどうしよう」と小さく零した。
「……、……大丈夫じゃろう。20年間なかった現象がいまここで急に起きたんじゃすぐに戻るじゃろう」
「っだからこそだよ!……20年間こんな現象はなかった!じゃあ、もし……っ、っこれから二十年間このままだったら……っ」
アネッタはまるで怯えた子供のようだった。言葉を大きくして言った後、すぐに彼女は我に返ったようだったが、「……この体じゃ私は役立たずだ。……なんにもできなかった……」と呟く言葉はどこか力ない。
その言葉に、最近のアネッタがやけに活動的だったことを思いだす。
悠々自適に空を泳ぐように飛んでいたのも、食事をしていたときに訳も無くわしの耳朶をつついてきたのも、薪割りを手伝うといって材木にチョップをしていたぁい!なんて喚いていたあれも、ジャブラの髪をサンドバックのようにパンチして蹴って怒られていたのも、単なる和む光景だと思っていたものは全て自分の能力を試していたのだろうか。言ってくれたらいくらでも相談に乗ったのに、こうやって悩みを詰め込んで、ひっそりと不安に思い続けるのは彼女の悪いところかもしれない。
心臓がぎゅっと締め付けられるように痛む。その感情が何と言うべきかは分からなかったが、慰めたいという気持ちで手を伸ばしても、わしの手はいまのアネッタにとってはあまりにも大きすぎた。抱き寄せることも出来ずに空を握ると、少しの間を置いて、小さなアネッタを指先で擽った。クルルル……と小さな動物じみた音が響く。
「……お前は竜に戻りたかったんじゃないか」
わしは静かに問いかける。
「……戻りたかったよ、……でも、人の姿にもなれない、本来の大きな姿にもなれない…この小さな身体を望んだわけじゃないもの。」
「……そうか」
「………それに、……このままの姿じゃカクの隣にも…みんなの隣にもいれないじゃない………」
彼女の言うことは尤もだった。普段の人間に模した姿とは違って、外に連れ出す事も出来ない存在は、確かにCPとしては不要だ。恐らく最終目標である世界政府に戻れたとしても、いまの姿のままだと彼女は確実に研究所行きになって、すべての権利をはく奪され、冷たい檻の中にでも幽閉されるはずだ。
「……馬鹿な奴じゃのう、たとえお前が……、……アネッタがその姿のままでもわしはお前から離れる気はないぞ」
「……本当?」
「あぁ、わしが嘘を言うことがあるか?」
「ない……」
「じゃろう。…安心せい、今のお前になったからといって捨てるほど、わしゃ冷酷じゃないわい」
「……私のこと好きでいてくれる?」
「愚問じゃな」
「……もしかしてカクって私のこと好きだったりする?」
「……うん?わはは、どうじゃろうなぁ」
「えぇ~?」
馬鹿な奴。愚問だと言っている時点で答えはイエスだろうに。
次の問いかけは照れかくしだろうか。その問いかけがあんまりに馬鹿だったから、わしは笑ってしまって、ころんとアネッタの体を転がして、身体のなかで唯一柔らかい腹をもちもちと触ってやると、アネッタは少しだけ安堵したようにけたけたと笑って嬉しそうに尻尾を揺らした。